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月と星の仄かな光に輝く庭園は、柔らかな静謐の中にあった。
皆の安全を祈る
しかし言葉など無くとも、ただお互いがそこにいるというだけで、二人は充足感のうちに落ち着いていられた。
かつてないほど大きな嵐のただ中にいながら……それでも二人の心は、どこか穏やかに静まっていた。
――そしてその時間は、永遠に続くかのようだった。
これまで彼らが過ごしてきた、気の遠くなるほど永い時間と同じに……。
どこまでも、また気が遠くなるほどに、永く。
しかし――永遠など、夢幻に過ぎないと告げるかのように。
優しく帳を下ろす静謐に、小さな靴音が――微かな波紋を広げた。
「……とうとう、来たのか」
窓辺から離れたウェスペルスは、ゆっくりと、階下に続く螺旋階段の前へと動く。
一つ、また一つと大きくなる足音は……やがてこの場に、一人の人物を招き入れた。
ウェスペルスが、そして春咲姫が――。
再会を渇望し、しかし再会するべきではなかった……かけがえのない人物を。
「……カイン……」「パパ……!」
二人それぞれの、万感の想いの籠もった呼びかけに――。
階段を上りきったカインは、ゆっくりと顔を上げる。
「――久しぶりだな」
カインもまた、内に込み上げるものを噛み締めるように、目を伏せた。
「二人とも、大きくなったな――。
本当に……見違えるほどだ」
かつて、もう一度聞きたいと願い、しかし叶わなかった父の声――。
1000年を経て再び
――話したいことがいっぱいあった。
それこそ、数え切れないほどにいっぱいあった。
聞いてほしかった。
聞いて、あの頃のように、優しく頷いてほしかった。
いや――聞いてくれなくてもいい。
ただそこに……ただそこにいてくれるだけで、どんなに嬉しいだろう……。
だが――それは、望んではならないことだった。
自らが預かる数多の命のため、生きたいという人間の願いを護るために、訣別を誓った彼女にとっては。
――永遠が罪であろうと、罪として背負い続ける覚悟を決めた、彼女にとっては。
だから彼女は、自らの衝動を必死に堪え、あふれそうになる涙を懸命に抑え――。
記憶の中の姿そのままの父を、気丈に見据えた。
いや――彼女だけではない。
ウェスペルスも、そしてカインも――。
その胸には、言葉を尽くして語りたい想いが、汲めども尽きない泉のようにあふれていた。
だが、どちらもまた、己の立場に言葉を封じ……。
為すべきことを為すために、想いをも封じる。
立ち塞がる者の命を断つ――ただ、そのために。
「オリビア。私がここへ来た理由……分かっているな?」
「……はい」
「――そうか。
ならば……もはや、何も言うまい」
――カインは、娘との間に立ちはだかる、白い法衣の青年と向き合う。
かつての少年は、彼の記憶の面影をそのままに……立派な美丈夫へと成長していた。
「カイン……僕の想いは、あのときと変わらない。
オリビアのためならば――あなたが相手でも、全力を以て戦うだけだ」
「……そうか。
私もだ――ウェスペルス」
二人の所作も気配も、どこまでも静かながら……しかしそれゆえにか。
場の空気は、加速度的に張り詰めていく。
かつての嵐の夜をなぞらえるように――。
二人は、それぞれにとって最も鋭利な凶器であるその身体に、互いの信念を力として漲らせた。
妥協などあるはずもない――。
ぶつかればどちらかが砕けて散るしかない、その信念を。
「――――!」
……動いたのは、まったくの同時だった。
常人からすれば瞬きにも満たない刹那――白と黒が、薄闇の中に混じり合う。
初撃からして、二人が狙ったのは首――急所だった。
互いに皮一枚でかわした渾身の貫手は、そうするのが自分の責任と、目を開いて見守る春咲姫の耳に、これまで聞いたこともない音を届かせる。
――形のない空気すら断ち切ったかのような、あまりに透き通った風音を。
ただそれだけで、戦いのことなど何も知らない春咲姫にも、二人の立つ場所が遙かな高みであると理解出来た。
まさしく、次元の違う場所――世界で彼らしかいない高所なのだと。
いかなる達人、戦士であろうと、彼らの渾身の一撃をかわすことは不可能に近い。
だが、今彼らの間で応酬されているのは、重奏のごとく、あるいは嵐のごとく響き渡る、あの透き通った風音が表すまま……余すところなくすべてが、その必殺の一撃だった。
拳も、脚も、その挙動のすべてが、頭を砕き、首を裂き、心臓を貫く――。
命を奪う、ただそのためだけに費やされる。
重なり合い、離れ、また重なる――。
激しく目まぐるしく交錯しながらも、しかし決して混ざり合うことのない表裏たる白と黒は――まさしく彼らの象徴だった。
互いに生と死の紡ぎ手として、境界線上で綱渡りを続ける――彼らの。
「……ウェスペルス……パパ……」
まるで目が追い付かない二人の動きに、これ幸いと顔を背けようとする臆病な心――。
それを必死に奮い立たせ、少女は死神同士の死闘を見守り続ける。
だが……彼女が目を背けずにいられたのは、もう一つ理由があった。
彼らの殺し合いは――。
そう、それ自体は殺し合いという野蛮な行為であるにもかかわらず――背筋が寒くなるほどに、美しかったのだ。
本来なら振れ動いた果て、どちらかに傾くしかないはずの生と死が、
その至高の二律背反が、彼女の無意識を惹き付けていたのだ。
拳は打ち、弾き、合わせて空が震え――。
脚は蹴り、躱し、釣られて空が啼き――。
指は貫き、捌き、引かれて空が吼える。
卓越した技術ゆえに――そして、慈悲深いがゆえに。
一撃の下に決着をつけんとする死神たちの拳舞は、決して一つとなることのない彼らの象徴そのままに――永遠を刻むかのように、止むことなく繰り広げられた。
それは、一時として気を抜くことを許さない、生死をかけた時間だ。
――にもかかわらず、ウェスペルスは。
カインを殺すことに集中しながらも……。
しかし心の片隅で純朴に、懐かしいと感じていた。
ずうっと、永い間、この瞬間を待っていたかのような……そんな気すらしていた。
殺意を鈍らせることなく。
決意を曇らせることもなく――。
絶え間なく、急所目がけて必殺の一撃を見舞い続けながら。
しかしウェスペルスは、なぜか――目尻に
「――――!」
思考はもとより、本能や勘といった感覚さえ超越した反応で――首を狙ってきたカインの貫手を、紙一重でかわすウェスペルス。
彼は、そこに一瞬……カインの死角が生まれたことを悟る。
同時に――今度ははっきりと、懐かしさを感じた。
……脳裏に、あの嵐の夜の光景が……雷光のように閃く。
――そうだ……あのときも。
あのときも、この一連の動きからだった――。
思わず涙したのは、また同じ結果を繰り返すことを察したからか――。
すかさず、ウェスペルスはカインの死角へと潜り込む。
……それは、時間にすれば数えることすら難しいほどの一瞬。
しかし――彼らほどの人間にとって、放つ一撃を真に必殺とするには、充分過ぎるほどの時間だった。
――カイン――!
思い出の光景をなぞり――。
ウェスペルスは無防備なカインの心臓目がけて、渾身の貫手を放つ。
その感触と、迎える結末すら、あの夜のままに――。
果たして、渾身の貫手は――狙い通りに、心臓を貫いていた。
……ウェスペルスの、心臓を。
「ウェスペルス――っ!!」
春咲姫の悲鳴で、ようやく事態を理解したように……。
ウェスペルスはゆっくりと、自身を見下ろす。
彼の指は、カインの胸を切り裂く程度に終わり――。
代わりに、黒衣に包まれた腕が……。
彼の胸を、疑いようのないほどに深く、貫いていた。
「……カイン、あなたは……」
あの一撃は、決してかわしようなどないはずだった。
まして、そこに反撃を乗せるなど。
そう――。
あの流れを知り、死角を知り。
そして、そこから繰り出される一撃を……あらかじめ知っていなければ。
「覚えて……いたのか。自らの命を奪った……一撃を。
いや――」
そこで一度血を吐き出し、ウェスペルスは弱々しく、微笑んだ。
「……あなたのことだ。きっと……1000年前のあの夜も……見切っていたんだろう。
なのに……あなたは、その優しさゆえに……躊躇ったんだ、あのときは。
……この、一撃を――」
「優しさなどではない――ウェスペルス。
私はただ……弱かっただけだ。
声高に正論を語りながら、その実は――。
大切なお前たちを喪う恐れに、屈しただけなのだ……」
カインはウェスペルスの身体を支えつつ、胸を貫く左腕を抜く。
「僕は……あの日あなたを殺したことを、後悔していない……つもりだった。
でも、僕もまた……同じだったのかも知れない。……オリビアと。
僕も、あの日……自分こそが、死ぬべきだったと……。
そう……どこかで想い続けていたのかも……知れない……」
「……ウェスペルスっ……!」
たまらず側へ駆け寄った春咲姫が、取り上げたウェスペルスの手を両手で包み込む。
ウェスペルスは何を言うでもなく、ただ、少女に笑いかける。
春咲姫も、何を言うこともなく――。
ただ、取った手を慈しむように……自らの頬にあてた。
「ウェスペルス……お前はあの日からずっと、ずっと……変わらず、オリビアの側にいてくれたのだな。護ってくれていたのだな。
……ありがとう、本当に。
よく――本当によく、頑張ってくれた」
カインのその言葉に……。
穏やかな顔をしたウェスペルスの目尻に、大粒の涙が浮かんだ。
「約束……だったから。あなたとの……オリビアとの。
それに……何より、それこそが……僕の願い、生きる意味……だったから。
でも……ああ――僕はこんなにも、待ち望んでいたのか……。
カイン、あなたにこうして……よくやったと、ほめてもらえる……そのときを」
「ウェスペルス……」
春咲姫は、想いが言葉以上に伝わるようにと、ウェスペルスの手をぎゅっと握る。
ウェスペルスは、小さく――しかししっかりと頷き返した。
「大丈夫……オリビア。
僕は……君が望む限り、側にいるよ……ずっと。
……約、束――――だ――」
「うん……約束だよ」
春咲姫の答えに、いかにも満足そうに……ウェスペルスは目を閉じた。
静かに――眠るように。
「約束だよ……」
もう一度繰り返し、春咲姫は握っていた手をそっと、ウェスペルスの胸元に戻す。
庭園の優しい緑の中に横たわるウェスペルスは――ただただ、美しかった。
だがそれは、人間離れしていて近寄り難いほどだった普段の美しさではなく……あくまで人らしい、人としての、人であるがゆえの美しさだった。
命の終わり――それが、浮き世離れしていた彼という存在を引き留め、ようやく『人』として、この世に完成させたかのように。
その姿を愛おしげに見つめていた春咲姫は……やがて、意を決したように立ち上がった。
続いて、カインも膝を伸ばし――。
父娘は、改めて向かい合う。
「私に、こんなことを言う資格は無いのかも知れない。
だが……一つだけ、言わせてくれ。
――オリビア。
お前は、本当に……立派に育ってくれた。
私と、母さんの……一番の誇りだ」
「…………パパ…………っ!」
まさか、そんな言葉をもらえると思っていなかった春咲姫は……。
驚きのままに父の顔を見上げた後――。
とうとう、堪えきれなくなった涙をあふれ出させた。
「パパ……! ごめんなさい……わがまま言ってごめんなさい……。
いやなお願いしてごめんなさい……。
つらいことを押し付けて……ごめんなさい……!」
子供に戻ったかのように、嗚咽を漏らす娘。
父はその頭を……大きな手で、そっと撫でた。
かつて……そうしていたように。
「……いいんだ。
私は、至らない父だったが……それでもやはり、お前の父親なのだから」
娘が泣き止むのを待ち――父は、頭を撫でる手を止めた。
……喉まで出かかっていた、すまない、という謝罪の言葉は呑み下す。
これは、自身が受けるべき罰であり――そして、すべての罪を背負って逝く覚悟の彼にとって、決して口に出すわけにはいかない言葉だったからだ。
だから、彼はこれ以上は何も言わず……不意に、その凶手を突き出す。
そして――
愛する娘に。その胸の奥に咲く、小さな一輪の花に。
永遠の命に。
迎えるべき死、夢の終わりを――厳かに告げた。