「……まさか、これほどに穏やかとはのう……」
椅子に深々と身を預けたまま、
……身体から、急速に力が抜けていくのが分かる。
命が、終わりを迎えるのが――実感出来る。
だが――その感覚はあまりに穏やかで、優しかった。
しかし、それがこれほどに優しいものだとは、彼も予想だにしていなかった。
遙か、本当に遙かに遠い昔……。
彼が真実、子供であった頃の記憶が思い起こされる。
日の暮れるまで遊び回り、心地よい疲れの中――。
母の子守歌で無垢に眠った、幼い記憶が。
……今、彼を包むのは、それほどに安らかな感覚だった。
あまりに優しいその死の感触は、温情にしか思えなかった。
不凋花と――そしてその宿主として永い時間を共に生きた、心優しい少女の。
あるいは――忘れられた死を告げ、人類の停滞した時間を目覚めさせた、慈悲深い死神の。
……不凋花を研究し、不死を形にし、そして広めたのは自分だというのに。
そんな罪深い者まで、その罪を洗い、清めるかのような安らぎの中、静かな死を迎えることが許されるのか――。
心地よい
ゆっくり近付いてくる黒衣の人影に、碩賢は自問するかのように問いかける。
「これほどに穏やかで……良いのか?
ワシのような……人間が」
「――それが、罪であろうとも……。
数多の苦しむ命を憂い、そして救い続けてきたあなたを、どうして責めることが出来るだろう。
死に行くその身を、誰が責めることが出来るだろう。
あなた自身ですら――もう、責める必要はない」
――その言葉とともに、そっと、彼の胸元に小さな花が置かれた。
素朴ながら
……こうして人は、世界に還っていくのだ――と。
* * *
――ベッドの中で身を丸めるマルタは、身体を襲う感覚が、ただの眠気でないことを本能的に察していた。
これが――『死』であることが。
……その感覚がいかに優しいものであっても、彼女は恐れずにはいられなかった。
喪失、終焉、そして未知――。
死が呼び覚ます負のイメージに、恐怖を抱かずにいられなかった。
母の抱擁のごとき、その安らぎの中にあっても――。
むずかる子供のように、彼女は必死に抗おうとした。
しかし――その最中。
瞼の裏に、ふと、子供たち……ノアとナビアのことを思い出したとき。
彼女はなぜか、心が平らぐのを感じた。
それは……自らの死も歴史の積み重ねの一つに過ぎないこと。
そして命は、子供たちによって受け継がれていること――。
その摂理を、無意識のうちに悟ったがためだったのかも知れない。
ただ生き続けるだけではない、もう一つの……。
完成された、命のあるべき姿を垣間見たからだったのかも知れない。
だが……むずかるのを止めた幼子は。
母の腕の中、静かで安らかな眠りにつくのみ――。
意識を安息に沈める彼女が、改めて、自らの心を省みることはなかった。
それでいいのだと――子守歌に諭されるままに。
* * *
……データルームの中に、ライラは横たわっていた。
額の銃創から、彼女が不凋花とともに眠りについたのでないことは分かる。
だが……その姿は、驚くほど美しく整っていた。
血は拭き取られ、手は胸の前で組まれ、眼もきちんと伏せられている。
それが兄妹の手によるものであることは、考えるまでもなく明白だった。
恐らくは、カインがヨシュアに対して行ったことの見よう見まねなのだろう。
しかし、どのようなものであれ……。
兄妹が死者を悼み、弔う気持ちを持っていてくれたことを、カインは純粋に嬉しく思った。
「――ライラ……」
その傍らに
そして……
「お前も、お前なりに、今日まで――。
オリビアのためにと、必死にその力を尽くしてくれたのだな。
――本当に、ありがとう」
安息の祈りとともに、ライラの頭をそっと撫でた。
かつて……無邪気に喜んでくれた、そのときのように。
「どうか……どうか、お前の迎える死が――。
恐怖とも嫌悪とも無縁の、どこまでも安らかで、優しいものであるように……」
* * *
……ルイーザは、特に驚くことも不思議に思うこともなく、その事態を受け入れていた。
全員分の家族の写真を抱えると、そのまま力無くソファに腰を落とす。
「……予感通り、というやつかしらね……」
つい先日サラから受けた、何でもない世間話の電話――。
それ自体は珍しいことでもなかったが……。
電話口の娘の様子に、何も言われずとも彼女は、大変な事が起きているのを察していたのだった。
……もちろん、詳しい事情など分かるはずもない。
だが今、自分が死に逝くことは分かっていた。
そして――娘と夫も同じなのだろう、ということも。
ならば、何も恐れることはなかった。
……そもそも、不老不死の恩恵は充分過ぎるほどに受けていた。
さらには、痛苦など無縁な、この優しい感触に包まれて、どうして死を拒む理由があるだろう――。
永らく忘れていただけで、実りの大地に還るときが来た――。
ただ、それだけのことなのだ。
――それに……死を迎えるというのなら、それはそれで、楽しみなことがある――。
抱いた写真の中から1枚、古びた写真を取り上げ――
「ずいぶん遅くなったけど、母さんたちもやっとそっちに行くことになりそうだよ……。
父さんだけじゃなく、あんたより年上の妹も一緒にね……。
――賑やかだろう? ねえ、リリー……」
ルイーザは、満足そうに微笑んだ。
* * *
……1階層の中央広間まで戻ったカインはそこに、グレン以外にもう一人の亡骸があることに気が付いた。
柱にもたれかかったグレンに、折り重なって倒れる女性――。
サラという名は知らずとも、それがグレンの娘であることを、カインはすぐに理解した。
二人の姿は……。
父親と、甘えてその身体を枕に眠る娘――そのものだったからだ。
『どのツラ下げて、家族に会えばいいんだかな――』
ここまで出会った者たちにそうしてきたように――。
この父娘にも花を供えるカインの脳裏に、グレンの最後の言葉が甦る。
「……こうして、お前に身を預け、安らかに眠る娘の姿……。
それが、何よりの答えだろう?」
そう呟くように答えて、カインは立ち上がった。
「信念を貫き、力を尽くしたお前に、何を恥じることがあるものか。
――胸を張って逝け。
お前は、父親として――誇るだけの資格があるのだから」