両親の死後に若くして女伯爵になったエレオノーラだが、実のところそこまで苦労していない。
異母兄が登場するまで一人娘として大切に育てられた彼女は、同時にいずれ家を継ぐ者としてしっかり教育されていたからだ。
伯爵家へ婿入り予定のノアだが、彼は王宮魔導師として城に勤めている。
しかも若干二十歳にして魔導師団の筆頭魔導師となった、いわゆる百年に一人の天才というやつなので結婚を機に引退が許される身ではない。
この世界の人間は皆大なり小なり魔法を使えるが、誰もが使えるからこそ王宮魔導師になるのは難しい。
生まれた時に決まってしまう魔力量、後天的に修得するコントロール力、魔導への深い理解と応用力、力を持つ者に求められる倫理観……。
そうした数々の素養を高めて、狭き門を通過した先でもランク付けされ続ける。
より優秀な血を残すことに重きをおく貴族は、平民に比べると魔力量が多い。
更に貴族の中でも上位にいくほど魔力量は右肩上がりになる。
公爵家の三男として生まれたノアは、母親の胎内にいた時からその魔力量の多さで注目を浴びていた。
膨大な魔力に押しつぶされてしまわないように、赤子の時には制御装置を何重にもつけ、幼少期からコントロールの練習を始めた。
素直で真面目な気質もあってか、十歳になる頃には天才魔導師と称されるようになった。
貴族の長男が家を継ぎ、次男は領地内で補佐をする――長男に何かあったときに代わりに爵位を継承できるように。そして三男以降は、自ら身を立てるか、婚姻により家に利益をもたらすことを求められる。
ノアの場合は魔導師として身を立て、ヴァレリー伯爵家の婿に入ることで実家に貢献することになっていた。
リオルトでは性別関係なく家を継げるので、伯爵家の主はエレオノーラだ。
肩書きだけ当主となり、家のことは夫に委任する女性は多い。
しかしヴァレリー伯爵家の場合は彼女の親である先代が、娘がお飾りの領主にならないよう鍛え上げていた。
旧知の仲だとしても、先祖代々譲り受けた土地を他人に委ねてしまわぬように。
人間関係はいつどうなるかわからない。今は誠実なノアだが、なにかが切っ掛けで仲がこじれたときにエレオノーラが不遇な扱いを受けぬように。
それに正統な血統の持ち主だろうと、女が上に立つことに反発する人間もいるだろう。
だから徹底的に。
性別など関係なく、理想の上司となるように。
素早く的確な判断。適切に部下を労い、公平に評価する力。適材適所を見分けて仕事を任せ、失敗することがあれば挽回できるよう導く寛容さ。決して感情的にならず、さりとて非情でもない人間性。
教育の甲斐あって、領地の外でもエレオノーラは立派な上司として部下を率いることができた。もし並の貴族令嬢であれば、到底不可能だっただろう。
そんなわけで普段は冷静で理性的な彼女だが、こと婚約者に関しては例外であった――
「エレオノーラ。俺との婚約を解消して欲しい」
「え?」
「長い間婚約していたというのに、この期に及んでこのようなことになり申し訳ない」
「え? え?」
婚約者としては実に二ヶ月ぶりの逢瀬。
前回会ったのは凱旋した騎士団を他の貴族と共に王宮で出迎えたときだったので、軽い挨拶しかできなかった。
あの時はエレオノーラも立ち回りに忙しかった。なにしろ主役は帰還した兵士達。女伯爵としては一瞬しか会場に滞在できず、ゆっくりノアと語らうことができなかった。
待ち合わせの場所は、王都でも若者が集うエリアにある喫茶店。
若者と言っても、それは裕福な貴族の子を指す。
一般市民を締め出しているわけではなく、価格帯がそうなので自然とそうなっている。
まだ金に余裕があるとは言えないが、開戦前のヴァレリー伯爵家の状況とは比べるべくもないので、この辺りでデートするくらい問題ない。
今日は久しぶりの二人きりの時間を楽しむのはもちろん、延ばし延ばしになっていた結婚についても話し合うつもりだったが、肝心のお相手が開口一番に言ったのが先ほどの台詞だった。
小さなテーブルを挟んで見つめ合う二人。
ふわふわと地に足つかない心地でいたエレオノーラは、浴びせられた冷や水のあまりの冷たさに機能停止した。
じわじわと体から熱が奪われ、痛みが広がる。
真剣な目をしたノアに見つめられたら、いつもならのぼせるくらい体が熱くなるのに今は冷え切り体が小刻みに震える。
(ああ、なんて綺麗なの……)
そんな場合ではないのに、現実逃避の一環なのか目の前の男に見とれてしまう。
炭のように混じりけのない艶やかな髪。
朝日に照らされた雪のような肌は、つい最近まで戦地にいたとは思えないくらい白くて滑らかだ。
最上級のルビーのような瞳は、エレオノーラを虜にしてやまない。
男にしては小作りな顔だが、さりとて女顔というわけでもない。
繊細で華やかで、時に少年らしさが垣間見える。
普段は魔導師のローブに身を包んでいるが、その下に細身でありながらもしっかりした体が隠れていることは、婚約者としてダンスのパートナーを務めてきたエレオノーラだけが知っている。
「ど、どうして? もしかして待たせすぎたから?」
今日の待ち合わせの話ではない。
仮にエレオノーラが大遅刻したとしても、ノアは遅れた理由を確認しようとする男だ。
腹を立てるとすぐ「別れてやる!」と口にするような面倒くさい恋人タイプではない。
心当たりがあるエレオノーラの全身から嫌な汗が出た。