婚約解消を切り出されるだけの理由と言えば、ここ数年の二人の状況だ。
当初の予定ではもうとっくに結婚しているはずだったのに、エレオノーラ側の事情で期限が曖昧なまま延期になっていたのだ。
運良くと言っていいかは微妙だが戦争が始まったことで、誤魔化すことができたと思っていたが違ったのか。
ノアは不満を飲み込んでいただけで、ついに我慢の限界が訪れたのかもしれない。
「我が家のこととか戦争とかでゴタゴタしてたけど、やっと落ち着いたでしょ。だから今日は私たちの結婚について詳細を詰めようと思っていたのよ」
エレオノーラの両親はまだまだ現役世代だったので、彼女の結婚後に徐々に引き継ぎを行う予定だった。
各所に配置していた代官は信頼できる人物たちだったし、エレオノーラは幼い頃から領地経営に関わる者たちと関係を築いていたので、急きょ領主が変わったがそこまで混乱しなかった。
それどころか、彼女が屋敷をあけても大丈夫だったくらいだ。
だがノアの実家であるルキウス公爵家には「急な代替わりで手一杯な状況なので、結婚は落ち着くまで待ってほしい」と伝えていた。
「そうじゃない」
「ごめんなさいっ! そうよねっ。言い訳よりも先に謝罪よねっ!」
「違うんだ」
「なにが違うの? だって他に理由なんて――」
「大切なことなので先に言うが君に非はない。むしろ家のことで苦労している時に力になれず悪かったと思っている」
ノアに「非はない」と言い切られた瞬間、頭の片隅を一瞬掠めたものがあったが、エレオノーラは見ないふりをした。
ノアは知らないはず。
だが人生を共に歩むはずの彼に明かしていない秘密があることが、彼女の動きを鈍らせた。
(どうする? ノアは優しいから私から言うのを待っているのかもしれない。それなのに私が一向に話そうとしないものだから、見切りをつけた?)
今更話したところで挽回できるかはわからない。
もしこの考えが見当違いだったら墓穴を掘るだけ。
延期の理由は解消したが、秘匿していたことで更に信頼を損なうだろう。
だがなにも行動しなければ、彼が去ってしまうのは確実。
戦場では優先順位がハッキリしていた。
一に命、二に武勲。
失うものは命しかなかったので、どんなに厳しい局面だろうと迷うことはなかった。
戦時中ずっと領地にいたはずのエレオノーラは、土煙と誰のものともわからぬ血にまみれた日々を思い出した。
雨などの気温が低い日に漂う悪臭や、何かが焼け焦げたような匂いまで記憶に引っぱられて蘇る。
(――ここはあの場所じゃない)
引きずられないよう意識を切り替えれば、鼻をくすぐるのは甘い店内の香りに戻った。
兵士の中には退役後にフラッシュバックを起こす者がいるという話だが、エレオノーラの場合はそこまででもない。
ふとした瞬間に五感が刺激される程度。
貴族令嬢とは思えない胆力と理性だ。
この国の領主は、領地で起きた犯罪を裁く役目も担う。
家を継ぐ者として人の生死に触れ続けていたことが、彼女を守られる側ではなくしていた。
とはいえ彼女が冷静に対処できたのは、古い記憶に引きずられないようにする意識の切り替えだけ。
引き続き目の前の大大大大大好きな婚約者についてはパニック寸前。
判断力が鈍り、つい突拍子もない行動に出てしまいそうだ。
「せ、戦争が始まったんだもの。ノアは王宮魔導師として従軍しなければいけない立場だったんだから、私は気にしないわ。ねえ、話合いましょう。非はなくても、私に問題があったのよね?」
「問題があるのは俺なんだ」
「ノアは真面目すぎるのよ。あなたにとっては問題でも、きっと私には気にならないことだと思うわ」
「本当に申し訳ないと思っている。この年齢で婚約解消となることで、君に傷をつけてしまった責任は別の形で取る。俺の有責による破棄としてもらって構わない」
そんな誠実さいらない。
悪いと思っているなら、このまま結婚してほしい。
「納得できないわ! ちゃんと理由を言って! そうじゃないと私――!」
「お慕いする方がいるんだ」
狼狽える婚約者から顔を背けることなく。涙で潤みはじめた目をしっかりと見つめて、ノアは言い切った。