ヴァレリー伯爵邸――
「……」
ノアと別れたエレオノーラは、神妙な顔で帰宅した。
「お嬢様、なにかお悩みですか?」
主を出迎えた年嵩のメイドが声をかける。
思えば今日のエレオノーラは出かける時から、いつもとは違った。
婚約者であるルキウス公子との逢瀬だ。いつものエレオノーラだったら、前日からテンションが天元突破していて宥めるのにも一苦労なのだが、今回はまるで戦局を左右する重大任務に赴くかのような重々しさがあった。
「えぇ、ちょっとね……」
エレオノーラはぎこちない笑みを浮かべると、言葉を濁した。
「もし差し支えなければ、この『じいや』にお話ください。これでも先々代の頃より伯爵家にお仕えしている身。多少はお役に立てるやもしれません」
そう申し出たメイドは美しいグレイヘアをキッチリ後頭部でまとめ、刻まれた顔の皺にも気品が漂っている。清廉で凜とした雰囲気の持ち主であり、若かりし頃は高嶺の花として憧れの的であっただろうと想像できる。
引き結ばれれば厳しさを感じさせる口元を緩め、主人を気遣う姿は上級使用人のお手本のようだ。
墨色のワンピースに、モスリンのエプロンとキャップ。どこからどう見ても『ばあや』である。しかし彼女はハッキリと自らを指して『じいや』と言った。
「身体を張ってくれてる、じいやには悪いけど、近々私は爵位を返上するかもしれない」
「!? お嬢様、それはどういう……!」
寝耳に水の宣言に、老齢のメイドは涼しげな目を見開いた。
「エレオノーラのままだと、ノアと添い遂げられないからよ」
「なんと!?!?」
加齢により弛んだ瞼を押し上げ、限界を超えて120パーセント目を見開いた。
「私も知ったばかりなんだけどね、実はノアは『レオナルド』が好きなの」
「……レオナルド様に憧れぬ男などおりますまい」
幼少期からお仕えしてきたヴァレリー伯爵家の一粒種は、男としても女としてもどこに出しても恥ずかしくない自慢の主人だ。
ヒーローに憧れる少年のようなものではないか、と言いたげな老婆をエレオノーラは手で制した。
「そういう意味じゃなくて、恋愛対象として好いているということよ」
「そ、それは。誠でしょうか……」
「誤解でも勘違いでもないわよ。本人の口からハッキリ聞いたんだから」
「お労しや、お嬢様。……いえ。しかし、レオナルド様の正体はお嬢様です。つまり両想いになられたということではございませんか?」
初恋の人が同性愛者だった。
性別が性的嗜好に影響しているなら、エレオノーラである限りノアから矢印が向かうことはない。
だがメイドも、かつてのエレオノーラと同じ結論に達した。
パッケージは違っても中身は同一人物だ。ならば何の問題もないのではないかと。
「そうよ。だから私はノアの気持ちに応えることにしたわ」
「それがどうして伯爵位を手放されることになるのでしょうか? このじいめにもわかるように説明していただけませんか?」
胸に手を当てる仕草は侍女というより、執事のそれだ。
今は性別に合わせてメイド服を着ているが、普段は執事のお着せを着ているのだから、そちらの立ち居振る舞いが滲み出てしまっても不思議でもなんでもない。
「あぁ。ノアと別れた後、王宮に寄ってきたからレオナルド姿のままだったわ」
そう言うと、エレオノーラは人差し指に嵌めていた指輪を外した。
指から指輪が離れると、二人の姿は瞬きの間に変化した。
軍服を着た凜々しい青年(オネエ口調)は、シンプルなドレスを纏った令嬢に。
クラシカルなメイド服を着こなしていた老女は、グレイヘアをオールバックにした執事へと姿を変えた。
これがエレオノーラが性別を変えた方法である。
対になる魔導具により二人の性別を入れ替え、装備中はその状態で固定される。
元の姿に戻ったエレオノーラは頭を振った。
「普通に考えれば、愛する人を騙すような真似はすべきじゃない。もし友人が私と同じことをしようとしていたら絶対に止めるわ」
「えぇ、その通りですとも。すべてを打ち明ければ、丸く収まるではありませんか」
「でもね。初めて恋した相手が架空の人物だった。なにもかも偽りだった――それで幸せになれると思う? そのつもりはなかったとはいえ、騙されていた。頭では同一人物だと理解したところで割り切れる?」
「それは――」
魔法解除により、元の姿に戻った『じいや』ことブライアンは言葉につまった。
「だから私は嘘を本当にする。一人二役で生きていこうなんて生半可な覚悟じゃ、すぐ破綻するでしょう。エレオノーラとレオナルド、どちらを取るかと言われたらレオナルド一択よ」
エレオノーラとしての人生を捨てて、レオナルドとして生きる。
男としてノアを幸せにする。秘密は墓まで持っていく。
これが今日ノアと話して出した結論だ。
「お嬢様……」
「不甲斐ない主人でごめんなさい。でも私はヴァレリー伯爵家の当主であることよりも、愛する人を選んだの。その程度の女なのよ」
頭の片隅には、一介の伯爵家の安泰よりも、国内外に強い影響を持つ騎士団長を残した方が国のためになるという考えもあったが、それは後付けの理由に過ぎない。
どんな形であっても構わないから、ノアと添い遂げたいというのが一番の動機だ。
副産物を大義名分にして、自分の欲を誤魔化したりはしたくない。
「いいえっ、いいえ! お嬢様は立派な御方です」
「今はブライアンの協力でレオナルドになれているけど、あなたはヴァレリー伯爵家の使用人だわ。後任を探さないとね」
「その者が裏切れば、すべて水の泡になるではございませんか。じいは決してこのお役目を、他人に譲るつもりはございません! 命ある限り務めさせていただき、この身が朽ちた後は孫のアルフレッドに引き継ぎます!」
領地の屋敷で働いている息子でも構わないが、孫にバトンタッチした方が寿命という点で引き継ぎの回数を減らせる。
「気持ちは嬉しいけれど、新しい領主があなたの主になるのよ」
「我がドリス家は領主ではなくヴァレリーの血筋に仕える家です。もしレオナルド様として生きられるのであれば、改めて男主人として雇っていただければよろしいのです」
「ブライアン……」
「お嬢様の為とあらば、愚孫も喜んで性別を捧げましょう!」
「捧げねーよっ!!!!」
見習い執事として部屋の片隅で待機していたアルフレッドだが、祖父が勝手に人の性転換を宣言したので全力で拒否した。