――マズイ、マズイ。すごくマズイ。逃げなきゃ。
心の中で焦りの言葉を連呼しながら、メイドは街の通りを走っている。
額に浮かぶ汗を気にもとめずに一心不乱に走っていた。
――今の時間は、確か訓練をしているはず。
頭の中でそう思い出して、メイドは通りの角を曲がった。
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時間は少し遡る――。
若いメイドはティーポットとカップを積んだカートを押しながら、絨毯の引かれた廊下を歩いていた。
短い黒い髪の上ではホワイトブリムが揺れて、小柄な身体にはメイドにしては珍しい紺色のメイド服を纏っている。
メイド服にはところどこに可愛いフリルが付いていて、スカート丈が膝までと少し短い。
すこしばかり派手なこのメイドの姿はここの主の趣味だろうか。
扉をノックして中からの返事の後、メイドは部屋の中へと入った。
部屋へ入り深々とお辞儀をして顔を上げた時、メイドは石のように固まってしまった。
視線の先には、客人として招かれた女性の姿。
ウェーブがかかった美しい金髪を胸の辺りまで伸ばした宝石のような碧眼を持った美女。
そして、その美女も入ってきたメイドを見るなり、目を見開いて固まっていた。
「どうかされましたかな?」
不意に声を掛けられた客人の金髪美女は、我に返って優雅な笑みを浮かべる。
「いえ、なんでもありませんわ。クレメンス市長」
「ええと、どこまで話しましたかな。そうそう、それでこのアイゼンフェルは、錬金術師の街として、古くから栄えておりまして、此度の錬金術師の競技会も、五十回を数える歴史ある競技会なのですよ」
クレメンスと呼ばれた恰幅の良い紳士然とした男は、入ってきたメイドが直立不動で動かないでいることに訝り、彼女へ視線を向けた。
その視線を受けたメイドは我に返り、いそいそとカートの上でお茶の用意を始めた。
「五十回とはすごいですね。二年毎に開催されているのならば、百年も続くのですね」
金髪の美女が感嘆を交えて言った。
「いやまぁ、途中、国自体がゴタゴタしている時には、開催できませんでしたから、正確には百年ではないのですが、まぁそのくらいは続いておりますな。しかし、意外ですな。リアンダール王国が錬金術に興味があるとは」
「いえ、私の国は、魔術や錬金術といった不思議な力には疎いもので、やはり他の国に置いていかれないように、今更ながら勉強を始めた次第です」
「そうですか、それにしても使者殿が来るとは聞いておりましたが、こんなにも美しい方がお見えになるとは、このような外交官を抱えるリアンダール王国が羨ましいですな」
そう言って笑うクレメンスに、愛想笑いを浮かべる金髪美女。
そこにお茶の入ったカップを持ったメイドが近づいてきた。
メイドはテーブルにカップを置くが、その手は震えていて微かにカチャカチャと音を立てている。
「ありがと」
金髪美女はそう言いながら、大きな碧眼でメイドの顔を覗きこむ。
メイドの漆黒の瞳は泳ぎ、口元だけ笑みを作っている。
そして、メイドは再びカートに戻って再びお茶を注ぎ始めた。
「それはそうと、今度の競技会に備えて、大掛かりな自警団を組織されたとも聞いていますが」
「ええ、そうです。競技会では高価な魔法具がたくさん集まりますので、警備を万全にせねばなりませんからな」
「自警団は、どういった方で編成をされているのですか?」
やたらと自警団に興味を示す使者に首を傾げながらも、クレメンスは律儀に答える。
「そこは、冒険者ギルドに登録されている冒険者や、他国から流れてきた傭兵たちですな。彼らは報酬さえ良ければ、よく働いてくれますから」
メイドがお茶を注いだカップを持って、クレメンスの横まで歩いてきた。それを金髪美女は横目で見る。
「傭兵ですか、ひょっとしたら我が国リアンダールから流れてきた剣士とかもいるかもしれませんね」
「ああ、そうですな。そういえば、最近やたら強い剣士が入ったと聞きましたが、確かリアンダール出身だったとか。名前は確か……」
「……ライアン」
ぽつりと金髪美女が呟いた。
お茶を差し出しながら、メイドはその身体をびくりと震わせた。
「ああ、そうですな。確かそんな名前ですな。ひょっとしてお知りあいですかな?」
「もし知り合いなら、黙って居なくなった恩知らずですから、ぶん殴りたいですわ」
「え?」
「いえ、何でもありませんわ」
メイドの手が激しく震える。
ソーサーの上のカップは踊るように跳ねていて、中身のお茶が激しく波打っていた。
「お、おい、大丈夫かね。お茶がこぼれているじゃないか」
目の前のメイドの粗相にクレメンスは慌てる。
「おーい、誰か、他の者はいるか? すいませんね、この子は最近入った者でして」
年配のメイドが慌てて部屋の中へ入ってきて、テキパキとこぼれたお茶の後始末をする。
「ここはもういいから、下がっていていいわよ」
年配メイドにそう言われた若いメイドは深々とお辞儀をして、部屋を辞した。
そして、部屋の扉が閉じた瞬間。勢い良く廊下を駆け出したのだった。