メイドが屋敷を飛び出したちょうど同じ頃――。
青空から降り注ぐ陽光を仰ぎ見ながら、女剣士は切れ長の双眸を眇めた。
そよ風で少し乱れた短めの髪を手櫛で整えて、再び歩き始める。
「どうかしましたかな」
少し前を歩く中年剣士が振り向いて問いかけてきた。
「いえ、天気が良くて、気持ちいいなと」
「そうですね。今の季節は穏やかですごしやすいですな。まぁ、夜はまだ寒いですが」
その言葉に女剣士は愛想笑いで答えた。穏やかな天気に表情が緩む。
「さぁ、着きましたぞ。ここが、自警団の詰め所と訓練所です」
中年剣士は開け放たれた門の前で立ち止まった。
その門と奥にある建物を女剣士は眺めた後、中年剣士に向き直る。
「すいません、見学をお願いした上に案内までして頂いて」
「いえいえ、同じ街を守る者として、我々自警団の見学が少しでも役に立てば幸いです」
中年剣士に続いて門をくぐった時、大きな歓声が聞こえてきた。
見ると、詰め所の前の広場に人だかりができている。
何かを囲むように人の輪ができていて、その中心は人垣で見えない。
「何か起こったのでしょうか?」
女剣士は中年剣士に問いかけた。
中年剣士は顎に手を当てて考える素振りを見せて、にこやかに答える。
「ああ、あれは、おそらく『兄の壁』でしょうね」
「『兄の壁』?」
「いえね、最近市長のクレメンスさんのお屋敷に、若くて可愛らしいメイドが入ったんですが、自警団の若い奴らの中でその娘がとても人気でして」
「はぁ」
女剣士は今の話と『兄の壁』という言葉が、結びつかずに気の抜けた返事をする。
「それで、若い奴らはその娘を食事に誘いたいみたいなのですが、その娘には自警団に入った兄がいましてね。
その兄のガードが固くて妹に男どもが近づくのを許さないのですよ。
それで、その兄が言うには、俺に勝ったら妹を誘ってもいいと。おそらくは今も若い誰かが、その兄に決闘を挑んでいるんでしょうな」
「なるほど、その兄との決闘に勝つことが『壁』ということですか。そんな条件を突きつけるくらいですから、その兄は余程腕に覚えがあるんですね」
その言葉に中年剣士は首肯する。
「ええ、そりゃあもう、強い、強い。なにせ今まで勝った奴はいませんからな」
そして中年剣士は何かを思いついた表情を浮かべる。
「あぁ、そうそう。そういえば、その兄妹もリアンダールから来たと言っていましたな。そうすると同郷ですな」
人垣の中を見ようと背伸びをしていた女剣士の動きがピタリと止まった。そしてゆっくりと中年剣士の方へ顔を向ける。
「ひょっとして、そのメイドの妹というのは、黒髪で黒い瞳の小柄な娘ですか?」
「え? ああ、そうです。市長のお屋敷でもうお会いになられていたのですか?」
「兄の方は、ガラと人相が悪い男ですか?」
女剣士は問いには答えず、淡々とした声音で質問を重ねる。
「まぁ、そうですね。あまり上品な感じではないですな。髪は茶色で、ええと、名前は……」
「……ライアン」
「ああ、そうです。あれ? ひょっとお知り合いですかな?」
途端、女剣士の顔が氷のような冷たさを湛えた笑みに変わる。
中年剣士は凛冽なその笑顔に背筋を凍らせた。
女剣士はそのまま何も言わず、人垣の方へ歩んでいった。
****************
大振りな横薙ぎの剣を、獣が地に伏せるかのような体勢で剣士は躱した。
剣士は地に伏せた時の反動を使って、身体を起き上がらせる。そしてその勢いで持って剣を真上に振り上げた。
振り上げた剣は狙いあやまたず、相手の剣を捉えて弾き飛ばした。
高く舞い上がった木剣は、しばらく空中で回転した後、地面へ衝突して乾いた音を立てた。
剣士は相手の喉元へ木剣を突きつけた。
相手は剣を飛ばされて空いた手の平をこちらに向けるようにして、顔の辺りまで上げている――降参のポーズだ。
周りの人垣がどよめく。決着が着いたにも関わらず、あまり歓声が上がらないのは、予想通りの結果だったからだろうか。
勝った方の剣士は剣を下ろして額の汗を拭った。
「オラ! もう終わりか! もっと骨のある奴ぁいねえのか!」
周囲を取り囲む人垣に向かって、剣士は傲然と叫んだ。
すると、人垣からひとりの女剣士が現れて、気配を殺して背後から近づく。
「誰でもいいんだな?」
女剣士は剣士の背後から声を掛けた。
背後からの声にもさして驚かず、剣士は口端を上げながら振り返る。
「へぇ、女とは珍しいな。あんたもうちの妹……」
剣士は振り向いた途端、石のように固まってしまった。
目は見開き、さっきまで笑みを造っていた口は無様に半開きになっている。
「久しぶりだな、脱走騎士。こんなところでお兄さんをやっているとはな」
そう言って、女剣士は傍らに落ちていた木剣を拾って、片手で素振りをした。
力強い風切り音がした。
「来い、恩知らず。我が主に代わって、お仕置きをしてやる」
次の瞬間、男の剣士は木剣を放り投げて、脱兎のごとく逃げ出した。
人並み外れた跳躍力で人垣を飛び越えて、転がるようにして門を飛び出したのだった。
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――マズイ、マズイ。すごくマズイ。殺される。
心の中で焦りの言葉を連呼しながら、剣士は街の通りを走る。
額に浮かぶ汗を気にもとめずに、一心不乱に走る。
――今の時間は、まだ屋敷で働いているはず。
頭の中でそう思い出して、剣士は通りの角を曲がった。
角を曲がるとその先に大きな屋敷の屋根が遠く見えた。目的とする市長の屋敷だ。
通りに視線を戻すと、屋敷の方角から一人のメイドが走って来ている。
二人の距離はあっという間に縮まり、互いの顔が視認できる距離まで近づいた。
「リリア!」
剣士はメイドの名を呼ぶ。
「ライアンさん!」
メイドは剣士の名を呼ぶ。
お互いに何故相手がここにいるのか判らない。
ただ、お互いに相手の表情から、ただ事では無いことが起きていることが察せられた。
「リリア! 大変だ、早く逃げよう!」
「ライアンさん、逃げましょう!」
互いの口から同じ様な言葉が飛び出した。
「「え?」」
今度は二人の頭に揃って疑問符が浮かぶ。暫しの間ほうけていた二人は我に返る。
「大変なんだ、リリア。詰め所に現れたんだ、あの女が!」
「こっちの方が大変です、ライアンさん! あの方がお屋敷にいらっしゃっています!」
「な、なんだ、あの方って、こっちの方が大変なんだって!」
「こっちの方が大変ですよ! だ、誰ですか、あの女って!」
あたふたと慌てる二人。
するとライアンは、リリアの背後に金髪碧眼の美女が迫ってきているのを視認した。
リリアの方は、ライアンの背後に木剣を握りしめた女剣士が近づいてくるのを視認した。
ライアンとリリアは血の気が引いていくのを感じた。
「これは、これは、奇遇ね。国を棄てた騎士様がこんな所にいるなんて」
金髪碧眼の美女――シェリーはウェーブがかかった髪を優雅に背に流しながら告げた。
「命が助かったにも関わらず、挨拶も無しに国を出ていった騎士様ですね」
木剣をビュンビュン振りながら、蒼い髪の女剣士――トリシアは間合いを詰めてきた。
「「逃がすと思うか」」