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開幕②

 教会の聖堂の中は静謐な空気に包まれていた。

 外の賑やかな空気から切り離されたように、穏やかで落ち着いた空間がそこには広がっていた。


 ステンドグラスから入り込む日差しは鮮やかな色彩を聖堂の中へと落とし、静寂さと相まってそこに居るものの心を浄化させる。

 そんな神聖さをたたえていた。


 聖堂は競技会に臨む錬金術師たちの控室としてあてがわれていた。


 ヨハンが中へと入ると、そこには既にちらほらと数人の錬金術師がいた。

 聖堂に居並ぶ長椅子にそれぞれ陣取って座っていて、最後の確認をする者や瞑想に耽る者がいる。


 錬金術師たちはヨハンが入ってきても、さして気に留める様子は無い。


 ヨハンは入口近くの最後尾の長椅子に腰を降ろした。『万療樹の杖』を大事に抱えたまま、聖堂の高い窓のステンドグラスを見上げる。


 ――これを見るのも最後か。


 そう思いながら、自身の錬金術師としての思い出を振り返る。

 最後の数年は『アルカナス目録教書』に振り回された黒い歴史ではあるが、その前の希望に満ちていた時が頭に浮かんできた。

 新しい創作物に挑むときの昂揚、成功した時の達成感、失敗したときの悔しさ、それらが記憶とともに胸中に感情の波として蘇る。


 なかなかに濃密な錬金術師としての道筋だった。そう思って微笑む。しかし、錬金術師としては満足だとしても――。


 胸の奥に刺さった杭が軋む。


 軋むたびに胸は締め付けられる。


 何を残せただろうか、何を伝えられただろうか。そんな言葉が頭に浮かぶ。

 仕方が無い、もう終わりなんだ。そんな言葉で塗りつぶす。


 心も体も深い沼へと沈んでいくような感覚だった。


 そう考えていると、同じ長椅子に誰かが座った。


 聖堂の中にはいくつも空いている長椅子があるのに、何故ここに座るのかと思っていると。


「久しぶりだな。ヨハン」

 聞き覚えのある男の声だった。隣の男はヨハンの方は見ずに前を見据えている。


「ああ、久しぶりだな。ダミアン」


「その名で呼ばれるのも久方ぶりだ」


「今は、イグナシオ先生と呼んだ方がいいか」

 ヨハンが皮肉めいて言うと、イグナシオは鼻で笑う。


「ヨハン、どういう風の吹き回しだ、今さら競技会に出るなど。もう錬金術は辞めたとばかり思っていたぞ」


「まぁ、確かに辞めていたんだがな。色々あって、最期にもう一度出てみることにしたんだ」


「最期?」

 イグナシオはヨハンの方に顔を向けた。


「ああ、今度こそ正真正銘の最期の競技会だ。これが終わったら俺も引退だ」

 再びイグナシオは前を向く。


「『万療樹の杖』を造ったらしいな」


「ああ」


「本物か?」


「そうだ。……どうしたダミアン。それを確認するためにわざわざ来たのか?」

 ヨハンはイグナシオの横顔に問う。


「競技会を棄権しろ」

「あ?」


「競技会を棄権しろと言った。それがお前の為だ」

「どうしてだ?」


 ヨハンの問いかけにイグナシオは何も答えない。

「さっきも言ったが、これは俺にとっての最期の競技会だ。俺の最期の生きた証だ。棄権はしない」


「……そうか」

 イグナシオはぽつりと呟いた。


「棄権しなかった奴は襲うのか?」

 ヨハンの言葉にイグナシオはピクリと反応する。


「お前の噂は知っている。裏の者を使って、有力な候補者たちを……」


「ヨハン。俺は忠告したからな」

 そう言ってイグナシオは立ち上がって背を向けた。


「ダミアン。どうしてだ」


「――同じだ」

「同じ?」


「俺とお前は同じだ。お前が酒に溺れたように、俺は地位に溺れた、それだけだ。もう抜け出せない。後には引けないんだよ」

 イグナシオは来た時と同じように、足音を立てずに静かに聖堂から去っていった。


*************


 裏通りを歩くイグナシオは後の気配に気づいて足を止めた。

「ヴァルゴか」


「どうだ、交渉は上手く行ったか?」


「交渉は決裂だ」


「そうか、じゃあ、例の計画を実行だな」


「…………」


 イグナシオは拳を握り込んで奥歯を噛みしめる。

 しかし嘲笑を浮かべながらヴァルゴは言う。


「イグナシオ、お前にはためらう権利はもう無い。もう進むしかない」

「分かっている。だが、決して危害を加えるな」


「ああ、分かっているよ。それで、居場所はどこだ?」


「大通りの道具屋にベルハルトというのが居る。そいつなら知っているはずだ」


「なるほどな」


「いいか、くれぐれも手荒な真似は――」

 イグナシオは振り向きながら言った。しかしそこには誰も居なかった。


************


「――じゃあ、店長、先に行ってますね」

「おう」

 ベルハルトは店から出ていく若い店員たちに手を振った。


 競技会の当日はアイゼンフェルの街全体がお祭り騒ぎとなるので、ほとんどの商店も露天商を除いて休みとなる。


 しかしベルハルトの道具屋は、錬金術師御用達の店ということから、競技会の当日も朝から店を開けていた。


 だが、それも競技会の実演披露が始まるまでという条件付きであり、今日は既に閉店になっていた。


 若い店員たちは実演披露の前に祭りを見て回りたいとのことだったので、最後の後片付けは店長であるベルハルトが請け負った。


 ベルハルトは時計を見ながら、実演披露までに間に合うように帳簿の整理を急いでいた。


 そこに店の扉がガチャりと開く音がした。


 たしか扉には閉店の看板を出していたはずなのに。そう思いながらも帳簿から目を離さずにベルハルトは告げる。


「悪いな。今日はもう終わりなんだ」


「あぁ、すまないね、客じゃないんだが……」

 ベルハルトが顔をあげると、そこには小柄な男が立っていた。


「どうしたんだい?」


「いえね、この間、赤毛の女の子がこれを落としていったんだが、どこに居るのかわからなくてね。街の人に聞いたら、ここの主人なら知っていると聞いたんだよ」


 小柄な男は小さな水晶石を見せながら、ベルハルトに言った。


「ああ、赤毛の女の子なら、ハルちゃんかな」


「そうそう、そのハルちゃん。どこに居るか、家の場所は知っているかい?」


 小柄な男はそう言いながら口角を上げたのを、ベルハルトは気が付かなかった。

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