「お母さん、お婆ちゃん。早く、早く」
ハルは赤毛をなびかせて、後ろを歩く母と祖母に向かって太陽のような笑顔で言う。
「そんなに急いだら転ぶわよ、ハルディア。ほら前を見て」
ハルの母のフリーデリケはそう声を掛ける。
そんな心配そうなフリーデリケとは対照的に、祖母であるカタリーナはハルを見て目を細める。
「まさか、またこうやってハルディアとお出掛けできるとは思っていなかったわ」
「でも、本当に大丈夫なんですか? 広場まで結構歩きますよ?」
フリーデリケはカタリーナに心配そうな顔をして問いかける。
「大丈夫よ。あの日から何日も経っているけれど、日に日に身体が軽くなっていくのよ。それに今日のために歩く練習もしたのだから」
「そうですか」
カタリーナの言葉にフリーデリケは安堵した顔で微笑む。
「ねえ、ねえ、お母さん。先に行って、お店を見て回っていい?」
いつの間にか横に来ていたハルが、フリーデリケのスカートの裾を掴みながら言う。
「駄目よハルディア。今日は久々にお婆ちゃんとのお出掛けなんだから、一緒にいなさい」
「はーい……」
ハルは頬を膨らませながら返事をした。
その様子にカタリーナは顔を綻ばせる。
「いいのよ、フリーデリケさん。今日は折角のお祭りなのだから、ハルディアも色々見て周りたいでしょう。行かせてあげましょう」
「でも……」
「そんなに気を使わなくてもいいわ。ねえハルディア? 後できちんと広場に来るのよ?」
カタリーナはしゃがみ込んでハルに言う。
「うん! お婆ちゃん有難う!」
そう言ってハルはカタリーナに抱きつく。頭を撫でられてハルは嬉しそうに笑う。
そしてハルはフリーデリケにも抱きついた後、大通りの方へと駆けていった。
************
広場に続く通りに出たハルは目を見開く。
通りには露天がずらりと並び、人でごった返していた。
そこかしこに笑顔と笑い声が溢れ、遠くからは賑やかな音楽も聞こえてくる。
空を見上げると、色とりどりの旗が飾られていて、陽の光に映えて風に揺られている。
露天に並ぶキラキラと輝く宝石や、鼻をくすぐる甘い焼き菓子の匂い、すべてが日常からかけ離れた夢の世界のようだった。
そんな夢の世界を歩くハルの胸は温かい感動が波打っていた。
ハルは錬金術の道具を並べている露天を見つけた。
露天の前で小さな手を握りしめて商品を眺めるハル。しかしその彼女の背後に人影が近づいてきた。
ハルは不意に背後から肩をポンと叩かれた。
驚いて振り向くと若い女性が居た。
「こんにちは、ハルちゃん」
その金髪の女性は笑顔でハルの名を呼んだ。
「え、ええと……」
それが誰だか判らないハルは口ごもる。
「あれ? 私のこと、忘れちゃった?」
女性が微笑みながら首をかしげる。ハルは素直に頷く。
「一度会っただけですからね」
そう言いながら、もう一人女性が現れた。
短めの髪に切れ長の双眸の、少し怖そうな人だった。その二人が揃った光景を見てハルは思い出す。
「あっ! ライアンにーちゃんを殴った人たちだ!」
結構な大声でハルは叫んだ。
通りを行き交う人の視線が集まり、シェリーとトリシアは顔が引きつる。
「あははははははは、もうハルちゃんったら、おかしなこと言うのね。さぁ、こっちへいらっしゃい。お菓子を買ってあげるから!」
シェリーは半ば強引にハルの手を引いて、急いでその場から離れた。
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「――そう、お母さんとお婆ちゃんも来ているのね」
「はい。お婆ちゃんが先に見て回っていいよって、言ってくれたのです」
テラスに腰かけて話すシェリーとハル。そこへ買い出しに行っていたトリシアが戻ってきた。
トリシアが手のひら大の丸いタルトをハルの前に差し出した。
「はい、どうぞ」
しかし、ハルはもじもじとして受け取らない。
「どうしたの? ハルちゃん。タルトは嫌い?」
シェリーの言葉にハルはぶんぶんと顔を振る。
「……大好きです。でも、ハルはお金を持っていないのです……」
シェリーとトリシアは顔を見合わせる。そしてくすっと笑った。
「いいのよ。お金なんて、私たちがご馳走したいのだから」
「で、でも、知らない人からお菓子を頂くのは……」
「あら、私たちは知らない人たちなのね」
小悪魔っぽく微笑むシェリー。
「ハルちゃんは、ライアンの事は知っているのよね?」
ハルはこくりと頷く。
「そのライアンは私たちと仲良しなの。だから、私たちとハルちゃんは、もう知らない人じゃないわ。それにこのお菓子のお金はライアンが払ってくれるの。だから遠慮しないで食べて」
「ライアンにーちゃんが?」
「ええ、そうよ。ハルちゃんを見かけたら、お菓子を食べさせてやってくれって、ライアンから頼まれていたのよ」
滑らかに出てきたシェリーの言葉はもちろん嘘であったが、それに気づかない無垢なハルはその言葉を疑いもなく信じた。
「じゃ、じゃあ」
ハルはトリシアの手からおずおずとタルトを受け取る。
そして確認するかのようにシェリーの顔を見る。シェリーは笑顔で返す。
ハルは小さな口でタルトをかじった。
少し硬い生地の香ばしい匂いと、リンゴの甘い香りが混ざりあって鼻腔を抜ける。
口の中ではリンゴから果汁が染み出して、甘みとほのかな酸味が口いっぱいに広がった。
とろけそうな顔でタルトを頬張るハルを見て、シェリーとトリシアも幸せな気分に包まれたのだった。
その後、少し話をしてハルはシェリーたちと別れた。
シェリーはまだ他にもご馳走したいと言っていたので、ハルはすごく後ろ髪を引かれる思いだったが、他にも見て回りたい欲求に勝てず、再び通りを駆け出したのだった。
通りを駆けていく赤毛の少女の背中を見送って、シェリーは胸元から懐中時計を取り出す。
「さてと、実演披露まではもう少しね。どこか見たいところはある? トリシア?」
「そうですね、錬金術で造った魔法の武器とか興味があります」
「……無粋ねアナタ。こんなお祭りの時くらい、武器のこととか忘れなさいよ」
「う、いいではないですか、こんな時にしか、見られないのですから……」
ちょっとすねたトリシアを見てシェリーはふっと笑う。
「いいわ、そう言えば、あっちに武器を並べているお店があったわね。いってみましょう」
シェリーは通りの奥を指差して歩き始めた。
その瞬間――地を揺るがすような大きな爆発音が通りに轟いた。
轟音は耳をつんざき、びりびりと震える空気が肌に感じられた。
トリシアは怯む間もなく、シェリーの頭を抱きかかえて座り込んだ。
多少強引ではあったが、主を守るための素早い反応であった。
「何? 何があったの!」
トリシアの腕の中でシェリーは叫ぶ。
「判りません。ですが、ここは危ないです。避難しましょう」
そう言ってトリシアは立ち上がり、シェリーの手を引いて、露天の影に隠れた。
すると、爆発音がした方角から、雪崩のように人が押し寄せて来たのだった。
辺りは騒然として、皆、顔を恐怖に染めて逃げまどっている。
人の洪水の勢いはとどまることを知らず、通りを埋め尽くしていく。
露天や屋台のテントもなぎ倒されて、賑やかな祭りの風景は一変した。
「できる限り離れましょう」
トリシアが冷静に言って、二人は立ち上がる。
しかしその二人に目掛けて、テントの大きな木の柱が倒れこんできた。
「クッ!」
トリシアは咄嗟にシェリーの上に覆いかぶさった。
柱が激突する瞬間、歯を食いしばり目を閉じた。
しかし予想していた衝撃は襲ってこなかった。
目を開けると柱は目の前で止まっている。
「大丈夫か?」
声の方を向くと、ライアンが両手で柱を受け止めていた。
トリシアは安堵のため息をついた。
「ああ、大丈夫だ。お前の馬鹿力で助かった」
シェリーたちが柱の下から抜け出したのを確認して、ライアンは柱から手を離した。
重たい音を立てて柱は地面を転がる。
「だ、大丈夫ですか?」
リリアが駆け寄ってきて、ライアンたちを覗き込む。
「ああ、大丈夫だ。何なんだ、さっきの爆発は」
ライアンは険しい顔で爆発音がした方を見る。
その同じ方向を向いたシェリーは何かを思い出したようにハッとする。
「ハルちゃんが! ライアン、あっちの方にハルちゃんが行ったわ!」
「ハル? ハルが居たのか!」
「ええ、そうよ! あっち、さっきの爆発のあった辺りにいたかもしれない!」
「わかった! トリシア、お前はシェリーを頼む!」
トリシアは首肯で応える。それを確認してライアンはリリアを連れて駆け出した。
「フランツさん。我々も向いますか?」
ライアンたちが駆けていった方向を見ながらエマは呟いた。
フランツは眼鏡の位置を直しながら逡巡する。
「いや、僕たちは教会に行こう」
「教会ですか?」
「ああ、この爆発は陽動かもしれない。ヨハンさんの所へ向かおう」
フランツとエマはライアンたちとは反対方向の教会へ向かって走り出した。