『万療樹の杖』の先端がポゥと淡く光る。
ライアンの腹と胸にできていた黒いアザが、みるみる綺麗になっていった。
「どうですか?」
杖を持ったフランツが聞いてくる。
「……本当に治ったな。すげえなこの杖」
「いまさらですね……」
感心した顔で答えるライアンにフランツは呆れ顔だ。
「そういえば、みんな無事なのか?」
「ええ、無事ですよ。ヨハンさんもエマちゃんも傷だらけでしたが、杖でなんとかなりました」
「リリアたちは?」
「彼女ならそこに」
フランツが指差すと、リリアがライアンの所へ向かってきていた。
「大丈夫ですか! ライアンさん」
「ああ、久々に死にかけたぜ」
軽快に笑いながらライアンは言う。
余程心配だったのか、気の抜けたリリアはへなへなとその場に座り込んだ。安心して緊張の糸が緩んだのか、瞳には涙が浮かんでいた。
「嬢ちゃんを泣かすんじゃねーよ。ライアン」
ハルを抱きかかえたヨハンが近づいてきて言う。
フランツの言う通り、彼の痛めつけられていた身体もすっかり治っていた。
「オッサン。ハルはどうだ? 無事か?」
「ああ、寝ているだけだ」
こうして互いに無事を確認していると、倉庫の入口付近にバタバタと足音がした。
一瞬、緊張が走るが、国軍兵の格好をした兵士が現れると、一様にため息を漏らした。
「国軍兵がようやくおでましか」
「そのようですね」
ライアンたちは倉庫へ向かう途中に、通りすがりの国軍兵や自警団に援軍を依頼していたのだった。
それに応じた国軍兵がたった今、倉庫に到着した格好だった。
武装した国軍兵たちがわらわらと倉庫の中に入ってくる。
一人の隊長格の兵士が近づいてきた。
「事情を詳しく頼む」
フランツが代表して経緯やこの場で起こったことを兵士へ説明をする。
それを聞いた兵士は、ヴァルゴたち三人を捕縛するように部下たちに指示を飛ばした。
「――よくわかった。あの三人の身柄はこちらで引き受ける」
隊長格の兵士はそう告げた。
すると、倉庫の入口付近からまたしてもざわつきが聞こえてきた。
兵士たちの人垣が割れて、一人の甲冑姿の男が現れた。
国軍兵団のラルハザール将軍だった。
ラルハザールはヴァルゴたちを一瞥し、ライアンたちの方へ近づいてきた。
そして、一同の顔を見渡した後に口を開く。
「杖は無事か?」
いつかと同じような威圧的な響きを伴った声だった。
「まずは人の心配じゃねえのか――」
「――杖はこちらです。杖もクロイツ氏も無事です」
ライアンが文句を言おうとするが、フランツが言葉を被せて言った、
ラルハザールは杖を見てヨハンも見る。
「ヨハン・クロイツ。今回は大目に見るが、今後、軽率な行動は控えてくれたまえ」
低く明瞭な声で命令口調にラルハザールは告げた。
ヨハンは威に当てられて息を呑む。
「す、すまない」
その返事を確認すると、ラルハザールは踵を返した。
その時、倉庫の中に大きな雄叫びがこだました。
見ると、サイラスが手と胴体を縛られたまま立ち上がっていた。
彼はひときわ大きな叫び声を出した。すると彼を縛っていた縄が破裂するかのように千切れ飛んだ。
何人かの兵士が取り押さえようと掴みかかるが、サイラスは大きな腕を振り回して兵士たちを投げ捨てる。
「あの野郎!」
ライアンは剣を拾って立ち上がり、サイラスへ向かっていこうとするが、既に一人の甲冑男がサイラスの前に立っていた。
甲冑の男はラルハザールであった。
彼は腰の剣すら抜かずに、手をだらりとしたに降ろした構えを取る。それは構えというより、ただ立っているだけのように見えた。
兵士たちの制止を振り切り、サイラスは突進を敢行する。
その前にはラルハザールが立ち塞がっている。
サイラスの剛腕がうなりをあげてラルハザールへと放たれた。
次の瞬間、サイラスの顔は凍りついた。
なんと彼の拳をラルハザールは左手一本で受け止めていた。
ラルハザールは右手の拳を前に突き出した。
その衝撃でサイラスの巨躯は弾き飛ばされた。
何人かの兵士を巻き添えにしながら、サイラスは地面を転がる。
しかし、彼には幸運が転がってきた。
兵士に回収された棍棒が今の衝撃で目の前に転がってきていた。
すばやく棍棒を拾い上げてサイラスは再び突撃をする。大きく振り上げてラルハザールの脳天目掛けて振り下ろす。
しかし――。
サイラスの目の前で棍棒が砕け散った。
驚愕する彼の目にギラリと光る剣が映る。
剣の光は一瞬またたいた後に消えた。
彼の意識はそこで途絶えた。
ラルハザールの足元にサイラスは崩れ落ちた。
倒れたところには血溜まりが広がり始めている。
いつの間に抜いたのか、ラルハザールの手には剣が握られていた。彼はそれを一振りして血を払うと、何食わぬ顔で鞘へと収めた。
「片付けておけ」
それだけ告げると、異様な静けさの中、ラルハザールは去っていった。
************
「――ハルはまだ起きないのか。オッサン」
「うん? ああ、まだみたいだな」
教団の後始末は国軍兵たちに任せて、ライアンたちも帰路に着いていた。
まだ目を覚まさないハルは、ヨハンの背中におぶられている。
「それにしても、オッサンがハルの父親だったんだな」
ライアンの言葉にヨハンは顔を強張らせた。
「……聞いていたのか」
「ああ、天井でな」
「ライアン、このことは黙っていて欲しい」
「まぁ、事情は判っているつもりだ。でも、いいのか?」
いつになく真剣な眼差しでライアンは問うた。
ヨハンがゆるゆるとかぶりを振る。
「正体をバラしたところで、俺はもうすぐこの世から居なくなる。だからもういいのさ」
「だからこそ、最期に一緒にすごしたくはないのか?」
「前にも言ったが、これは贖罪だ。俺は会えねえのさ」
「強情だな」
ふっとヨハンが笑い、背中からずり落ちそうなハルの身体を抱き直した。
「あんなに軽かったのに、重くなったもんだ。この重さを味わえただけで、もう充分だ」
ヨハンは遠い夕日を眺めた。その顔は深い慈愛に満ちていた。
その時、ハルのまぶたがぴくりと動いた。
「……う、……うん」
小さな口から声が漏れる。
「起きたか? ハル」
ライアンが声を掛ける。
それに反応してハルはゆっくりと眼を開けた。
「……ライアンにーちゃん?」
「おう、そうだ。ハル、どこか痛いところとかねえか?」
「痛いところ? ううん、大丈夫」
ハルは寝ぼけまなこでゆるりと笑う。
ヨハンの背から降りたハルは一同を見渡した後、ヨハンの顔をじいっと見る。
「おじさんは……」
「ハル、このオッサン……おじさんは、一緒に助けに来てくれたんだ」
ライアンが代わりに答えた。
「おじさん、この前の杖のおじさんですか?」
ハルは首を傾げながらヨハンに言う。
「え? ああ、そうだ。よく憶えていたな」
ヨハンは視線を逸らしながらぶっきらぼうに答える。
その声を聞いたハルがぴくりと反応した。
「ん? どうした?」
ヨハンが言うと、再びハルはぴくりと身体を震わせる。
「……その声……。おじさんはハルが寝ている時に、ハルを呼びましたか?」
「え? ああ、確かに呼んだかもしれない」
ハルは眼を見開く。
「さっきからどうしたんだ、ハル。何かあったのか?」
ライアンがハルの顔を覗き込みながら尋ねた。
「ハルは夢を見ていたのです」
「夢?」
「はい、夢の中で名前を呼ばれたのです。でも、夢じゃなかったかもしれないのです」
ライアンはハルが言わんとしていることが分からずに首をひねる。
「眠りが浅い時に聞いた声が、夢に出ることはありますね。そのことを言っているのかも知れません」
隣にフランツが来て説明をしてくれた。
「ふーん。オッサンが名前を呼んだのが、夢の中で聞こえていたのか?」
ライアンの言葉に、ハルはコクコクと頷く。そして地面を見つめて逡巡する素振りを見せる。
周囲が怪訝な表情で顔を見合わせる。そしてハルは再びヨハンの顔を見上げた。
「――お父さん、ですか?」
赤い髪を夕日にいっそう赤く染められた少女は、唇を微かに震わせながらヨハンに呟いた。
予想だにしなかったハルの言葉に、今度はヨハンが眼を見開く番だった。
胸の奥から熱いものが込み上げてきたが、奥歯を噛み締めてそれを封じ込めた。
暫し固まった後に、ゆっくりと口を開く。
「俺がお父さん? まだ、寝ぼけているのかい? 君のお父さんはもういないんだろ?」
ぎこちなく微笑みながらヨハンは言った。
「どうして、ハルにお父さんが居ないことを知っているのですか?」
「……そ、それは、そこのライアンに聞いたんだ。なぁ、ライアン!」
ヨハンは助けを求める眼でライアンを見る。
不意に水を向けられたライアンは驚くが、しょうがないといった顔をする。
「そうだ、ハル。お前のお父さんは、もう死んだって言っていたじゃないか?」
「……ライアンにーちゃんは、ハルの名前を知っていますか?」
ライアンは首を傾げる。
「ハルの名前って、ハルはハルだろ?」
「はい、ハルはハルです。でもハルはハルでも、本当は違うのです」
「違う?」
そこでハルは再びヨハンを見上げる。
「――ハルディア。それが私の本当の名前なのです」
「本当の名前って、それがどうかしたのかい?」
「ハルは寝ている時に、おじさんのその声で名前を呼ばれたのです。ハルディアと。おじさんはどうしてハルの名前を知っているのですか? この前初めて会ったのに。それに――」
ハルは眼を伏せて、胸に両手をあてる。
「――ハルは胸がぽかぽかするのです。おじさんに名前を呼ばれたことを思い出すたびに、胸がぽかぽかするのです。お父さんが残してくれた本を読んでいるときみたいに」
ハルは両手の拳を握りしめてまっすぐにヨハンの瞳を見る。
ヨハンは思い出した。先程のヴァルゴたちとのやり取りで、確かに彼女の名を叫んだことを――ハルディアと。
「……き、君のお父さんのことは、知っている。娘が居たことも聞いたことがある。
その娘の名前は知らなかったが、ベルハルトが教えてくれたんだ。君の名前はハルディアと。
ベルハルトは君のお父さんと仲が良かったらしいからな」
ヨハンのその言葉を聞いたハルは、まるで紙風船がしぼんでいくかのようにうなだれた。
「そう、なのですか……」
それを見たヨハンは奥歯を強く噛み締めて拳を震わせる。
微かにヨハンの唇が震えて、息を吸い込み、言葉を発する気配がした。
しかし、言葉は出ずに震えながら大きく息を吐くだけだった。
ぼんとハルの肩にライアンの手が置かれた。
「帰ろう、ハル。お母さんとお婆ちゃんが心配している」
ライアンの言葉にハルはぎこちなく頷く。
隣にリリアが来て手を差し出してくれた。ハルはその手を握る。
ライアンとリリアに連れられて、夕日に向かってハルは去っていった。
その場に残されたのは、ヨハンとフランツたち。
ヨハンはフランツに言う。
「さて、俺も帰るよ。ライアンたちが居ないから、護衛を頼めるかい?
ああ、それと、杖はフランツが預かっていてくれ、俺が持っているより安全だからな」
フランツは何か言いたそうな顔をしていたが、眼鏡の位置を整えながら、「わかりました」とだけ答えた。