『万療樹の杖』が光りライアンにかざされる。
傷は癒えてすっかり元通りとなった。
「ふぅ、きつかったな」
ライアンはため息まじりに言う。
「全くです。この杖が無ければとっくに全滅していました」
その後はイグナシオが呼び寄せた自警団が通行止めを敷く国軍兵との押し合いの末、強行突破して、工房まで駆けつけてくれた。
ラルハザールが聖サタナーク教団であったという事実を聞いた自警団のフリューゲルは驚いていた。
しかし街の名士であるイグナシオが説明したこともあり、信頼に足ると判断してラルハザールを連行していったのだった。
そして念の為、フランツとエマもそれに同行していった。
一方、工房ではヨハンが床に膝を着いて項垂れていた。
それをライアンとリリア、それとイグナシオが見つめていた。
「すまない。俺はあんた等を裏切った。謝って済むことじゃないことは分かっている。お詫びじゃないが、魂を取る前に殴るなり蹴るなり好きにしてくれ」
そう言うヨハンの横にはハルが心配そうに寄り添っている。
「ハルの目の前でそんなことできるかよ」
険しい顔をして腕組みをしながらライアンは言う。
そう言われていっそう悄然と項垂れるヨハン。
「ヨハンさん」
リリアが口を開いた。
ビクリとヨハンが顔を上げる。
「悪魔を封じる石を造ったのは、ハルちゃんの為ですか?」
「いいや、自分の為だ。俺は自分の欲望の為に、嬢ちゃんを犠牲にしようとした。この娘は関係ない」
ハルは項垂れるヨハンの横顔を見つめている。
「お、お父さん?」
ヨハンは顔をそらす。
「俺は君のお父さんじゃない」
「嘘だ。さっきもハルディアって呼んでくれた。ねえ、お父さんはどうなるの? 魂を取るってなに?」
「…………」
「ねぇ、お父さん。お父さん……」
ハルは瞳いっぱいに涙を浮かべてヨハンを呼ぶ。
泣き出すのを我慢する顔は唇が小刻みに震えている。
「なぁ、イグナシオ。この娘を連れて行ってくれ。自警団に頼めば家まで送ってくれる」
「嫌だ! 嫌だ! お父さん! ハルは良い子にしてたよ! だから行かないで!」
ついに涙が決壊したハルはヨハンに抱きつき泣き出した。
それを見ていたイグナシオがリリアに向き直る。
「なあ、君、代わりに私の魂を取ってくれないか?」
その言葉に一番驚いたのはヨハンだった。
「何を言っているんだダミアン!」
「ヨハン、俺は大きな間違いを犯した。俺なんかよりお前の方が生きるのに相応しい。交代をしようじゃないか」
イグナシオが微笑みながら言った。
だがリリアがゆるゆると頭を振る。
「無理です。契約者以外の魂は取ることができません」
その言葉にイグナシオは悄然とした。
「そうなのか……」
リリアが再びヨハンに向き直る。
「ヨハンさん、どうしたいですか?」
「どうって、言われても」
「生きるも死ぬも含めて、どうしたいですか?」
「どうしたいなんて言える立場じゃない。俺はアンタ等に魂を捧げないといけない」
「魂を捧げたいのですか?」
「それが義務だ」
リリアが少し困った顔をする。
「今は義務は聞いていないのです。どうしたいのか、ヨハンさん、貴方の意思を聞いています」
「俺は……」
ヨハンの胸の中では嗚咽を繰り返しながらハルが泣いている。
ハルの頭をそっと撫でた。
何年ぶりだろうか、我が子を指先に感じたのは。
その手の感触にヨハンの魂は震える。
ボロボロとヨハンの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「俺は……俺は――」
涙が頬を流れるごとに胸の奥が脈打つ。
涙が身体の奥に染み込んでいく感触とともに、胸の奥の軋みがやわらいでいく。
心に突き刺さっていた大きな杭は、少しずつ少しずつ、溶けるように消えていった。
そして胸の奥からぬくもりが溢れだす。
抑えつけられていた感情の奔流は、胸の中を満たして、それらはある強い意志へと変換されていった。
その思いは一つの言葉として顕現する。
「生きたい」
涙を流しながらも力強い瞳でヨハンは言い切った。
それはリリアが彼に出会ってから、一度たりとも見ることの無かった精彩を放つ顔だった。
リリアは静かに目を閉じる。
ヨハンとの出会いから契約に至る流れ、交わされた契約、叶えた願いが頭の中に展開される。
そして、先程の戦いの中で感じた異質な感触を思い出した。
再び襲う怖気を味わいながらも、脳裏では論理が組み立てられる――そして、暗闇に一筋の光を見た。
「ライアンさん?」
リリアが尋ねる。
「なんだ?」
「いいですか?」
リリアの問いにライアンは大きく息を吐く。
「……好きにしろ。でも、どうするんだ? オッサンの願いは叶っているぞ」
「大丈夫です。ヨハンさん、イグナシオさん、お願いがあります」
リリアは慈愛に満ちた微笑みを見せた。
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「――これなら、もう出来上がった物があるだろう?」
イグナシオが黒曜石を炉にくべながら言った。
「はい、そうですね。でもお願いします」
リリアは一冊の本を読みながら答えた。
そして幾つかの工程を経て、それは最後の工程を迎えようとしていた。装飾が施された黒い石は銀色の台座にはめ込まれようとしていた。
「そこで待って下さい」
リリアが作業の手を止めさせた。そして自身の手の平を黒い石へとあてがう。
「これが出来上がった後、使用するにはどうするのですか?」
その質問にヨハンが眉をひそめる。
「そりゃ、わずかに魔力を込めれば、効果は発動するが……」
「わかりました。では、私はここに手を触れたままにしますので、魔力を込めながら最後の工程を終わらせて下さい」
「え? そうだと、嬢ちゃんに発動してしまうぞ?」
「はい、そうです」
「そうですって……」
「大丈夫です。私は自ら滅ぶつもりはありませんから」
「……わ、わかった、言う通りにしよう」
ヨハンは小刻みに震える手に魔力を込めながら、黒い石を台座へと近づける。
リリアは黒い石に手を触れたままだ。
黒い石が台座にはめ込まれた瞬間。
工房に大きな破砕音が響いた。
思わず目を閉じるヨハン。再び目を開けると、手の中の黒い石は真っ二つに割れてしまっていた。
「失敗、したのか?」
ヨハンが呟く。
「はい、『封魔の黒曜石』の錬成は失敗しました。同時に貴方との魂の契約は破棄されました」
リリアが少しだけ憔悴した表情で答えた。
「どういうことだ? 契約が破棄されたって?」
「はい、契約の願いを叶える過程において、悪魔の身に致命的な障害が発生したので、ヨハンさんとの契約は破棄させられました」
「な、なんだ、致命的な障害って」
「お手元の黒い石ですよ」
ヨハンはそう言われて手の中の出来損ないの『封魔の黒曜石』を見る。
「……わからない。説明してくれ」
「それは、『封魔の黒曜石』、悪魔を封じることのできる石ですよね? 先ほど、ヨハンさんは完成させる瞬間に魔力を込めていました。そして私はそこに手を触れていた。その状態で『封魔の黒曜石』を完成させるとどうなりますか?」
「……『封魔の黒曜石』は完成した瞬間に、嬢ちゃんを封じてしまう」
「その通りです。ですので私の悪魔の力は、それを完成させることができなかった。
何故なら、それを完成させると、自分自身が滅んでしまうのですから。ヨハンさんの契約での願いは錬成を成功させること。
ですがそれを成功させてしまうと、私自身が滅んでしまう。それが致命的な障害なのです。
ですからこれ以上契約を続けることは出来なかったので、契約は破棄されたのです」
ヨハンはそれを咀嚼するように聞いていた。
そして顎に手を当てて考える。
「いやそれだと、おかしいだろう。俺の願いは『アルカナス目録教書』の中のモノを成功させることだ。『封魔の黒耀石』は『アルカナス目録教書』の中には無い。嬢ちゃんとの契約の範囲外だ。どうして契約が破棄される?」
リリアは微笑む。
そして一冊の本をヨハンに手渡した。
「これは、『アルカナス目録教書』? どうしたんだ今更」
「最後の頁を開いてみて下さい」
ヨハンは言われるがまま本を開いた。そして最後の頁を見て目を疑った。
「これは、『封魔の黒耀石』の錬成方法……?」
ヨハンが開いた『アルカナス目録教書』の最後の頁には『封魔の黒耀石』の錬成方法が書かれた紙が貼り付けられていた。
「まさか、これで……?」
「はい、『封魔の黒耀石』は、『アルカナス目録教書』の中に含まれているのです」
「馬鹿な! こんな紙を挟み込んだところで、含まれるなんて!」
「ヨハンさんは以前言われましたよね? 『アルカナス目録教書』には原書と言われる物は無く、弟子が編纂したものだと。それ以降も時代ごとに新しい解釈が書き加えられていると」
「ああ、だから『アルカナス目録教書』は時代ごとに内容が少し異なっている。だがしかし、錬成物が増えるなんて……」
「駄目ですか? でも時代ごとに変わるのならば、今ここで変わってもおかしくはありません。ですから、これも立派な『アルカナス目録教書』なのです」
リリアは凛とした輝きを持った瞳で言い切った。
ヨハンは体中が弛緩する感覚を憶えてへなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「……俺は、助かったのか……?」
「はい、契約が破棄された以上、もう私は魂を取り立てることはできません」
リリアは目を閉じて微笑んだ。
ライアンはやれやれと言った風に息を吐いたのだった。