朝焼けが京の都を薄紅に染める頃、宗則は春蘭に呼び出され、屋敷の離れへと案内された。
石畳の道は露で濡れ、ひんやりとした空気が宗則の頬を撫でる。
道の脇には、紅葉が始まった木々が立ち並び、静寂の中に、どこか寂しげな美しさを漂わせていた。
離れは、屋敷の奥まった場所にひっそりと佇んでいた。
木造の簡素な建物だが、周囲には清浄な空気が漂い、神聖な雰囲気を醸し出している。
「ここは、私が式神を鍛錬する場所です」
春蘭が静かに語る声に、宗則は思わず息を呑んだ。
部屋の中は薄暗く、沈香の香りが静かに漂っていた。
壁には、複雑な陰陽五行の図が織り込まれた掛け軸が飾られ、部屋の隅には、水晶玉や呪符が置かれている。
奥には、禍々しさと神秘が入り混じるような小さな祭壇が据えられていた。
祭壇の上には、奇妙な形をした仮面が置かれ、その周りには、黒曜石や水晶などの石が、幾何学模様に配置されている。
宗則は、その異様な光景に、背筋がゾッとするのを感じた。
「宗則様、あなたには、白雲斎様から、烏の巻物が託されたそうですね」
春蘭は、宗則の懐に手を伸ばし、巻物を取り出した。
彼女の指先は、氷のように冷たく、宗則は、思わず身震いした。
「この巻物には…禁断の術が記されている。古より陰陽師の間で、口伝すら禁じられてきた、恐るべき術…」
春蘭の言葉に、宗則は、息を呑んだ。
禁断の術…。それは、白雲斎が、決して口にすることのなかった、闇の世界の力。
「それは…人の魂を操り、死者を蘇らせ、あるいは、この世に災厄を招くことすら可能とする…恐るべき力…」
春蘭は、巻物を宗則に返すと、意味深な笑みを浮かべた。
「白雲斎様は、あなたに、この術を習得させようとしていたのでしょうか…?」
春蘭の言葉は、静かだったが、宗則の心に、鋭く突き刺さった。
(…師匠は……なぜ…?)
宗則は、白雲斎の真意を、測りかねていた。
「宗則様、あなたは、二条尹房殿をご存知ですか?」
春蘭は、唐突に、そう尋ねた。
「二条尹房……?」
宗則は、その名前に聞き覚えがあった。
二条尹房は、朝廷内で権力を握ろうと画策している、野心的な公家だ。
「二条尹房…彼は、禁断の術を求め、都の闇に蠢く者たちと手を結んだ。彼の目的は、帝を操り、朝廷を我が物とすること…そして、いずれは、この国を、己の支配下に置くこと…」
春蘭の言葉に、宗則は、息を呑んだ。
「…もし、彼が、その力を手に入れたら…この都は、そして、この国は、混乱と争いの渦に巻き込まれるでしょう」
春蘭は、宗則の目をまっすぐに見つめた。
その瞳には、深い悲しみと、強い決意が宿っていた。
「宗則様…あなたには、白雲斎様から授かった知略と、これから私が授ける陰陽の力を使い、尹房の野望を阻止していただきたいのです」
「…しかし、私は…まだ…そんな大それたことができるほどの力も…覚悟も…」
宗則は、言葉を詰まらせた。
春蘭様の言葉は、あまりにも重く、恐ろしかった。
禁断の術…朝廷の陰謀…そして、私に託された使命…。
(…私は…本当に…こんな大きな試練に…立ち向かうことができるのだろうか…? それとも…私は…この運命から…逃げるべきなのだろうか…?)
宗則の心は、激しく揺れていた。
「心配いりません。私が、あなたを導きましょう」
春蘭は、静かに微笑んだ。
その笑みは、どこか寂しげで、宗則の心を締め付けるようだった。
「白雲斎様は…あなたの中に、大きな可能性を感じておられました。私も…そう思います。
あなたを…白雲斎様のような…立派な陰陽師に…育て上げるのが…私の…使命です…」
春蘭は、宗則の背中に手を触れた。
宗則は、背中のあざが、熱く脈打つように感じた。
その時、彼は、天井の梁に、黒い影が止まっているのに気づいた。
それは、八咫烏だった。
烏は、静かに宗則を見つめていた。
まるで、彼の修行を見守っているかのようだった。
「さあ…明日から…あなたの試練が始まります…決して…諦めてはなりませぬぞ…宗則様…」
春蘭は、宗則の肩に手を置き、静かに言った。
「…今日は、ゆっくりとお休みください。明日から、あなたの試練が始まります。都に渦巻く闇は、あなたが想像する以上に深く、恐ろしいものです。…まずは…早朝より、屋敷の裏山に登り、滝に打たれて心身を清め、その後、座禅を組んで精神統一の修行を行います。午後は、陰陽五行の講義を受け、式神の召喚と制御の訓練を行います。夜は、古文書を読み解き、陰陽道の知識を深めてください…」
「…春蘭様…私は…まだ未熟者ですが…必ず…あなたの期待に応えてみせます…! この都を…そして…この国を…救うために…!」
宗則は、春蘭の言葉に、決意を新たにした。
不安は消えない。
しかし、彼は、春蘭の期待に応えたいと、心から願っていた。
春蘭は、静かに微笑んだ。
その笑顔は、宗則に、わずかな希望を与えた。
「…信じています…宗則様…」
春蘭は、そう言うと、部屋を出て行った。
彼女の後ろ姿は、闇に溶け込むように、消えていった。
宗則は、一人、部屋に残された。
静寂が、耳をつんざくように響く。
窓の外からは、都の喧騒が、波のように押し寄せてくる。
しかし、宗則の心は、深い闇の中に閉じ込められたように、重く、冷たかった。
(…私は…本当に…この都を…救うことができるのだろうか…?)
宗則は、不安と期待が入り混じった、複雑な気持ちを抱えながら、眠りについた。
(続く)