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第十八話 明智光秀の来訪

永禄二年(1559年)晩秋。

京の都、藤原家の屋敷は、冷たい雨に打たれ、静寂に包まれていた。



数日前から、信長からの使者・明智光秀が訪れるという知らせを受け、屋敷には、緊張感が漂っていた。

春蘭は、光秀を迎えるにあたり、屋敷の格式を整え、万全の体制でその日を迎えていた。

蓮は、鋭い視線で広間の入り口を見つめ、光秀の来訪を待っていた。

その表情は、まるで獲物を狙う鷹のようだった。



宗則は、自室で、静かに座禅を組んでいた。

しかし、彼の心は、落ち着かなかった。

信長という男は、一体どのような人物なのか? そして、光秀は、私に何を求めるのか?



三年前、宗則は、元服の儀式を行い、新たな名「東雲宗則」を授かった。

春蘭の指導のもと、陰陽師としての修行に励み、彼は、心身ともに、大きく成長していた。

しかし、信長という、未知なる存在への不安は、消えることはなかった。



やがて、明智光秀が、静かな足取りで広間へと通された。

彼は、質素ながらも品のある黒色の狩衣を身にまとい、腰には、一振りの太刀を佩いていた。

その姿は、まるで闇夜に浮かぶ月のように、静かで、それでいて、確かな存在感を放っていた。



光秀は、深く頭を下げ、落ち着いた口調で挨拶をした。



「わたくしは、明智十兵衛光秀と申します。織田信長様の命を受け、上洛に先立ち、藤原家様へご挨拶に参りました」



光秀は、ゆっくりと顔を上げ、三人を見回した。

その目は、知性と冷静さに満ちており、宗則は、思わず身構えた。

まるで、心の奥底まで見透かされているような、そんな気がした。



「ようこそ、藤原家へ」



春蘭は、柔らかな笑みを浮かべ、光秀を席へと案内した。

しかし、その笑顔の裏には、緊張の色が隠せない。



「わたくしは、花山院春蘭。こちらは、甥の藤原蓮、そして、白雲斎様よりご紹介いただきました東雲宗則殿でございます」



蓮は、光秀に向かって軽く会釈すると、鋭い視線で彼を見つめた。

二人の間には、目に見えない火花が散るようだった。



宗則は、光秀の言葉に耳を傾けながら、彼の様子をじっと観察していた。

光秀の言葉は丁寧で、穏やかだった。

しかし、宗則は、その奥に、何か底知れぬものを感じていた。



「信長様は、上洛の暁には、朝廷の権威を守ることを第一に考えておられます」



光秀は、静かで澄んだ声で言った。

その声は、静かな水面に石を投げ込んだように、宗則の心に波紋を広げていった。



「信長様は、武力だけで天下を治めるお方ではありません。古い秩序を壊し、新しい時代を築こうとしておられます」



「新しい時代…ですか?」



宗則は、思わず呟いた。

信長の言葉は、彼の心に、何かを突き刺すものがあった。

新しい時代…それは、一体、どのような時代なのか?



「はい。信長様は、かつてこう仰せられました。『身分や家柄に囚われず、才能ある者を登用し、天下を統一する。それが、私の志だ』と」



光秀は、熱のこもった口調で、信長の言葉を引用した。

宗則は、光秀の言葉から、信長の強い意志と、揺るぎない信念を感じ取った。



「信長様は、藤原家様にも、その大志を支える一翼を担っていただきたいと願っておられます」



光秀は、春蘭と蓮に視線を向け、静かに続けた。



「信長様は、朝廷を掌握するための手立てを整えたいとお考えです。そして、その障害となる二条尹房卿を排除することで、藤原家様と共に新しい体制を築きたいと考えておられます」



「二条尹房卿を…排除…?」



春蘭は、驚きを隠せない様子で言葉を繰り返した。

彼女の父は、二条尹房と親交があった。

信長が、二条家を排除しようとしているという事実は、彼女にとって、受け入れがたいものだった。



「…父上は…尹房殿と…長年の親交が…」



春蘭は、言葉を詰まらせた。



光秀は、春蘭の動揺を察知し、静かに言った。



「春蘭様、信長様は二条尹房が禁断の陰陽術を使って帝を操り、朝廷を我が物にしようと企んでいることをご存知です。このままではこの都は、そしてこの国は、混乱と恐怖に支配されてしまうでしょう」



光秀は、宗則に視線を向け、鋭く言った。

その視線は、まるで、宗則の心の奥底まで見透かすようだった。

特に、彼の背中に刻まれた八咫烏の紋章に、光秀は、強い興味を示しているようだった。



「宗則殿、あなたは白雲斎様から陰陽道の『表』を学んだ。しかし、この世には光だけでは解決できない闇がある」



光秀は、一拍置いて、言葉を続けた。



「信長様はその闇を知り、そして、それを利用する術を心得ておられるあなたも、信長様のためにその力を使う覚悟が必要となるでしょう」



「白雲斎様から、あなたの能力について詳しく伺っております。『泰山府君祭』の術、それは、非常に危険な術ですが、使い方次第では、大きな力となるでしょう」



「くれぐれも、その力を悪用することのないよう、ご注意ください」



光秀の言葉は、まるで、宗則の心の奥底に直接語りかけてくるようだった。

宗則は、光秀の言葉に、身震いした。

彼は、光秀の背後に、信長の巨大な影を感じていた。



「信長様は、藤原家様が近衛派と結託し、共に新しい時代を築くことを心より期待しておられます。

信長様は、古い秩序を壊し、新しい時代を築くために、二条家を排除する必要があると考えておられます。

そして、信長様は…才能ある者を登用し、天下を統一するという志を持っておられます…藤原家様にも、その一翼を担っていただきたいと…」



光秀は、そう言うと、深く頭を下げた。



光秀が屋敷を去った後、三人は、しばし言葉を交わさなかった。

部屋の中は、重苦しい沈黙に包まれていた。



「…信長…か…」



春蘭は、小さく呟いた。

彼女の表情は、複雑だった。

信長という男は、一体どのような存在なのか?

春蘭は、不安と期待が入り混じる気持ちだった。



「彼は危険な男です。しかし、二条尹房を倒すためには、彼の力が必要かもしれません。私は、どうすれば良いのでしょうか…宗則様…?」



宗則は、春蘭の言葉に、さらに不安を覚えた。



蓮は、冷酷な笑みを浮かべながら、言った。



「信長は天下が欲しいのだ。そして、そのために我々を利用しようとしている。しかし、私は、彼を利用するだけ利用された後、切り捨てるつもりだ。信長が、二条家を倒した後、私は彼を都から追い出す。そして、近衛家をこの国の真の支配者とするのだ。そのために…あなたの力が必要なのです。宗則殿…」



蓮は、宗則の目をじっと見つめた。

彼の言葉は、冷たく、鋭く、宗則の心を貫くようだった。



その時、宗則は、部屋の隅で、障子の隙間から、黒い影が、ゆらめいているのを見た。

彼が障子に手をかけた瞬間、影は、消えてしまった。

しかし、宗則は、確かに、その影から、人間の気配を感じた。

それは、かすかに…白檀の香りを残していた。



(…誰かが…私を…監視している…?)



宗則は、背筋に冷たいものを感じた。



「…宗則様…あなたは…まだ…信長のことを…何も…分かっていませんね…」



蓮は、意味深な言葉を言い残し、部屋を出て行った。



春蘭は、宗則に、蓮を信用しすぎないようにと警告した。



「…蓮は…優しい顔をしていますが…心の中は…誰にも分かりません…彼の言葉には…常に…裏があると思ってください…あなたを…危険な道へと…誘い込むかもしれません…」



宗則は、春蘭の言葉に、さらに不安を募らせた。



(…私は…一体…どうすれば…?)



宗則の心は、迷宮に迷い込んだようだった。



(続く)

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