春蘭は、信長の提案について、一人、書斎で考え込んでいた。
「古い秩序を壊し、新しい時代を築く…」
光秀の言葉が、彼女の耳朶にこびりついて離れない。
その言葉は、希望に満ちていると同時に、どこか不吉な響きも持っていた。
「信長様は、藤原家様に同盟を申し出ております」
「二条尹房を排除し、朝廷を掌握するために、藤原家様の力を借りたいと」
「信長様は、尹房を排除した後、藤原家様を朝廷の要職に就け、藤原家様の権力を保証すると約束されております」
光秀の言葉は、魅力的だった。
二条家を排除すれば、近衛家は、朝廷内で確固たる地位を築くことができる。
それは、長年、二条家の陰に隠れ、力を振るうことができなかった近衛家にとって、大きな転換期となるだろう。
しかし、それは同時に、大きなリスクを伴う選択でもあった。
信長という男は、底知れぬ野心を抱く、危険な存在だ。
彼と手を組むことは、火中の栗を拾うようなものかもしれない。
(父上…あなたは…どう思われるのですか…?)
春蘭は、亡き父・花山院忠輔の顔を思い浮かべた。
忠輔は、二条尹房と長年の親交があり、二条家を支えてきた。
温厚で、慈悲深い人だった。
信長と手を組むことは、父を裏切ることになるかもしれない。
(私は、感情に流されて、大切なことを見失っていました…)
春蘭は、自らの弱さを恥じた。
(父上…私は…一体…どうすれば…?)
春蘭の心は、愛する父と、近衛家への忠誠の間で、引き裂かれるようだった。
信長と手を組めば、父を裏切ることになるかもしれない。
しかし、信長を拒めば、近衛家は、滅亡の危機に瀕する…。
春蘭は、苦悩の淵に沈んでいた。
その時、襖が開き、宗則が入ってきた。
「春蘭様、お呼びでしょうか?」
「ええ、宗則。蓮様は?」
「蓮様は、急用で、先ほどお帰りになりました」
宗則は、春蘭の向かいに座った。
彼の顔には、以前の頼りない少年の面影はなく、陰陽師としての修行を経て、精悍さが増していた。
三年の月日が、彼を、少年から青年へと成長させていた。
「宗則、信長様の提案について、あなたはどう思いますか?」
春蘭は、宗則に、率直な意見を求めた。
宗則は、春蘭の苦悩を、誰よりも理解していた。
だからこそ、彼女は、彼の意見を聞きたかった。
「信長様は、確かに、大きな力を持ったお方です。しかし…」
宗則は、少し間を置いてから、続けた。
彼の言葉は、慎重で、思慮深かった。
「彼のやり方は、あまりにも強引すぎる。危険すぎる、と感じます」
「そうですか…」
春蘭は、静かに頷いた。
宗則の意見は、彼女の心の奥底にあった不安を、代弁しているようだった。
「しかし、二条家をこのまま放置すれば、都は、そして、この国は、滅びるかもしれません」
春蘭は、苦しげに言った。
彼女の言葉には、都の未来に対する深い憂いが込められていた。
「私は…どうすれば良いのでしょうか…?」
春蘭は、不安げに呟いた。
宗則は、春蘭の苦悩を、理解していた。
彼は、春蘭の力になりたいと、心から願っていた。
「春蘭様、信長様と手を組むことは、確かに、大きなリスクを伴います。しかし、二条家を敵に回すことも、また、大きなリスクです」
宗則は、冷静に言った。
彼の言葉は、春蘭の心を、少しだけ軽くした。
「重要なのは、どちらのリスクが、藤原家にとって、より小さく、より利益になるか、ということです」
「宗則…あなたの言うとおりです…」
春蘭は、宗則の言葉に、はっとさせられた。
彼の言葉は、シンプルだが、核心を突いていた。
「私は…感情に流されて…大切なことを見失っていました…」
春蘭は、深呼吸をして、心を落ち着かせた。
宗則の言葉が、彼女の混乱した心を、整理してくれた。
「宗則、あなたなら、どうしますか?」
春蘭は、宗則に、改めて尋ねた。
彼女は、彼の知恵を借りたいと思った。
宗則は、少し考えてから、答えた。
「私は、信長様と交渉すべきだと思います」
「交渉…?」
「はい。信長様は、藤原家の力を必要としています。ならば、我々も、信長様に対して、条件を提示するべきです」
「例えば…?」
「例えば、信長様に朝廷内の要職への人事介入を認めさせる、重要な政策決定に藤原家の意見を反映させる、あるいは、信長様の後ろ盾を得て藤原家が朝廷内でより大きな力を持つことができるように具体的な保証を求める…そして、信長様には二条家を排除した後、速やかに軍を都から撤退させることを約束してもらう…とか…」
「なるほど…」
春蘭は、宗則の提案に、深く頷いた。
それは、現実的で、かつ、藤原家にとって有利な提案だった。
「それは、良い考えですね。信長様も、藤原家との連携を強固なものにするために、喜んで、その条件を受け入れるでしょう」
「しかし、信長様は、本当に、約束を守ってくれるのでしょうか? あの方は、目的のためには、手段を選ばない…冷酷な男だと…聞いています…」
春蘭は、まだ、信長への不信感を拭い去ることができなかった。
信長の力は、魅力的だが、同時に、恐ろしくもあった。
「分かりません。しかし、信長様と対等な立場で交渉するためには、我々も、それなりの力を持つ必要があります」
宗則は、真剣な眼差しで、春蘭を見つめた。
彼の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「春蘭様、私は、あなたを守ります。藤原家を、守ります。そして、この都を、守ります! そのために、私に、あなたの力をお貸しください!
私は、鞍馬山で、『泰山府君祭』の術を習得しました。その力を使って、必ず、あなた、そして、この都を、守ってみせます!」
宗則の言葉は、力強く、春蘭の心を震わせた。
(宗則様…あなたは…本当に…大きく成長された…)
春蘭は、宗則の成長に、心から喜びを感じていた。
その時、部屋の奥から、物音がした。
宗則は、とっさに、刀に手をかけた。
「誰だ?」
宗則は、鋭い声で、問いかけた。
しかし、返事はなかった。
静寂だけが、部屋に広がった。
「気のせいでしょう、宗則様」
春蘭は、静かに言った。
「ええ、そうかもしれません」
宗則は、刀を鞘に納めた。
しかし、彼の心は、まだ、警戒を解いていなかった。
(蓮様の仕業か…?)
宗則は、蓮の言葉を思い出した。
(信長様との交渉…必ず…成功させましょう…)
宗則は、改めて、決意を固めた。
(続く)