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第二十話 訣別の時

光秀が尾張へと戻ってから数日後、信長からの返答が、再び光秀を通じて藤原家にもたらされた。


信長は、藤原家の提示した条件――二条家を排除した後、藤原家が朝廷内でより大きな力を持つことができるように保証すること――を受け入れ、宗則を家臣として迎え入れることを約束したのだ。


その知らせを聞いた春蘭は、安堵の表情を浮かべた。

信長との交渉は、成功した。

近衛家は、信長の力を借りて、二条家の企む陰謀を阻止し、朝廷の安定に貢献できるだろう。


しかし、その表情は、すぐに、深い悲しみに覆われた。


(宗則様、あなたは、まだ、若い…)


春蘭は、宗則を、息子同然に思っていた。

信長という、野心渦巻く男のもとへ、彼を送り出すことに、強い不安を感じていた。


(どうか、無事で…)


春蘭は、心の中で、何度もそう祈った。


信長は危険な男だ。


彼は目的のためには手段を選ばない。


宗則が彼の野望に巻き込まれてしまうかもしれない。


春蘭は、不安で、胸が張り裂けそうだった。


「宗則様、これよりは信長様のもとで、藤原家のために力を尽くしていただきたい」


春蘭は、宗則に、そう告げた。

彼女の言葉には、精一杯の強がりと、隠しきれない不安が込められていた。


「かしこまりました、春蘭様」


宗則は、深く頭を下げた。

しかし、その心中には、様々な感情が渦巻いていた。


(信長様は、一体、どんなお方なのだろうか?)


宗則は、信長という、謎に包まれた男に、強い興味と、同時に、底知れぬ恐怖を感じていた。


(春蘭様、私は、必ず、あなたの期待に応えます)


宗則は、春蘭への感謝の気持ちと、都を救うという決意を、改めて胸に刻んだ。


(しかし、綾瀬殿は…?)


宗則は、綾瀬の冷たい瞳に、言い知れぬ不安を感じていた。


(彼女は、本当に、私を、守ってくれるのだろうか?)


「信長様のもとでは、多くの試練が待ち受けております。しかし、あなたのような知謀に長けた方であれば、必ずや、信長様の信頼を得ることができるでしょう」


光秀は、宗則に、そう励ましの言葉をかけた。

しかし、宗則は、光秀の言葉の裏に、何か別の意図を感じていた。

彼の言葉は、まるで、宗則を試しているかのようだった。


その時、漣が、不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。


「宗則殿、信長様のもとでは、様々な危険が伴います。そこで、綾瀬殿を護衛としてお供させるのはいかがでしょうか?」


「綾瀬を?」


宗則は、驚きの表情を浮かべた。


綾瀬は、藤原家で育った、くノ一だった。

彼女は、幼い頃に両親を亡くし、孤児となっていたところを、春蘭に拾われた。

春蘭は、綾瀬に、忍びの術を教え、藤原家の密偵として、育て上げたのだ。


「ええ。綾瀬は武芸に秀で、かつて藤原家の密偵として幾度も成果を上げてきた優秀なくノ一です。彼女がいれば、宗則殿の身の安全も保障されるでしょう」


漣は、春蘭に視線を向け、同意を求めた。


春蘭は、少し考え込んだ後、静かに頷いた。


「漣卿の言う通りです。綾瀬、あなたは宗則様のお供をして、彼の身を守りなさい」


「かしこまりました、春蘭様」


綾瀬は、深く頭を下げた。

しかし、彼女の表情は、まるで能面のように、感情を読み取ることができなかった。

その瞳は、闇夜に光る氷のように、冷たく、鋭かった。


宗則は、漣の提案に、裏があると感じていた。


(漣様は、綾瀬を監視役として送り込むつもりなのだろうか?)


宗則は、綾瀬の忠誠心と、漣の真意の間で揺れる思いを抱えていた。


数日後、宗則は、信長のいる尾張へと旅立つこととなった。


出発の前夜、宗則は、春蘭の部屋を訪れた。


「春蘭様、お暇をいただきに参りました」


宗則は、春蘭の前に座り、深く頭を下げた。


春蘭は、宗則の顔をじっと見つめると、穏やかな声で言った。


「宗則様、あなたは、大きく成長されました。白雲斎様も、きっと、お喜びでしょう」


春蘭の目には、涙が浮かんでいた。


「どうか、ご無事で。そして、あなたの力を、正しく、使ってください」


宗則は、春蘭の言葉に、胸が熱くなった。


「春蘭様、私は、必ず、戻ってきます。そして、その時は、二条家の陰謀を阻止し、都に平和を取り戻してみせます」


宗則は、春蘭の手を取り、そっと握りしめた。


春蘭の瞳から、涙が溢れ出した。


「宗則様、どうか、ご無事で」


春蘭は、宗則の手を握り返し、静かに微笑んだ。

その笑顔は、悲しみに満ちていたが、同時に、宗則への深い愛情と信頼が、感じられた。


翌朝、宗則と綾瀬は、藤原家の屋敷を後にした。


春蘭は、屋敷の門の前で二人を見送りながら、優しく声をかけた。


「宗則様、綾瀬、どうぞお気をつけて」


宗則は、振り返り、力強く答えた。


「必ず生きて帰ってきます」


綾瀬は、無言で春蘭に深く一礼し、宗則に続いた。

彼女の表情は、依然として、感情を読み取ることができなかった。


宗則は、綾瀬と共に、京の都の門をくぐり、東へと続く道を歩き始めた。


(さようなら、都…)


宗則は、振り返り、京の都を見つめた。

荒廃した都の景色は、彼の心に、複雑な感情を呼び起こした。


(私は、必ず、戻ってきます)


宗則は、心に誓った。

そして、彼は、新たな地へ向かう不安を抱えながらも、自らの使命を胸に、力強く歩みを進めた。


(続く)

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