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第二十三話 月下の密約

静寂に包まれた春蘭の書斎。

窓の外には、満月が夜空に輝き、その光が、部屋の中に、淡い影を落としていた。


春蘭は、書斎の奥にある仏壇の前に座り、静かに手を合わせていた。

仏壇には、亡き父・花山院忠輔の位牌が安置されている。


「父上、私は、一体、どうすれば良いのでしょうか?」


春蘭は、苦しげに呟いた。


信長との同盟は、成立した。

しかし、それは、春蘭にとって、決して喜ばしいことではなかった。


信長は、危険な男だった。

彼の野心は、底知れず、彼の力は、計り知れない。


春蘭は、信長が、藤原家を利用しようとしているだけではないかと、疑っていた。


(信長は、二条卿を排除した後、次は…藤原家を…?)


春蘭は、不安に駆られた。


その時、襖が開き、漣が部屋に入ってきた。


「春蘭叔母上、お邪魔してもよろしいでしょうか?」


漣は、春蘭に丁寧に尋ねた。


「ええ、どうぞ」


春蘭は、漣に席を勧めた。


「宗則殿は、無事に尾張へ到着したのでしょうか?」


漣は、春蘭に尋ねた。

彼の瞳は、鋭く光り、春蘭の心を見透かすようだった。


「ええ。白雲斎様の寺に立ち寄った後、尾張へ向かったそうです」


春蘭は、答えた。


「そうですか」


漣は、意味深な表情で呟いた。

その表情は、春蘭の不安を、更に掻き立てるものだった。


「漣様、何か気になることがあるのですか?」


春蘭は、漣の様子を見て、尋ねた。


「春蘭様、あなたは信長を信用しておられますか?」


漣は、春蘭の質問に答える代わりに、問い返した。


「信長様は、危険な人物です。しかし、藤原家にとって、必要な存在でもあります」


春蘭は、慎重に言葉を選びながら答えた。

信長を頼らなければ、二条家の陰謀を阻止することはできない。

しかし、信長を信用すれば、藤原家は、彼の野望の犠牲になるかもしれない。

春蘭の心は、板挟みになっていた。


「信長は、天下統一を目指しています。彼の野望を止めることはできません」


「しかし、信長は、藤原家を利用しようとしているだけかもしれません」


漣は、冷徹な表情で言った。

彼の言葉は、春蘭の心の奥底にある不安を、容赦なく抉るようだった。


「信長は、藤原家の力を借りて、朝廷を掌握し、自らの権力をさらに強固なものにしようとしているのです。そして、用済みになれば…藤原家を…切り捨てるでしょう…」


春蘭は、漣の言葉に言葉を失った。

漣の言葉は、彼女の最も恐れていたことだった。


「春蘭様、あなたは信長に騙されているのです」


漣は、春蘭に近づくと、彼女の耳元で囁いた。

彼の声は、甘く、それでいて、底知れぬ冷たさを秘めていた。


「信長を信用してはいけません。彼を利用するのは、我々の方です」


漣は、春蘭の肩に手を置き、冷たい目で彼女を見つめた。

彼の視線は、春蘭の心を、支配しようとするかのようだった。


「わたくしには、ある計画があります。この計画を実行すれば、信長を我々の思い通りに操ることができます」


春蘭は、恐怖と好奇心が入り混じった声で尋ねた。


「どんな計画なのですか?」


「信長には、二条家だけでなく、朝廷内には、信長を疎ましく思う公家や寺社が、数多く存在すると吹き込みます。そして…彼らを利用するのです…」


蓮は、懐から一枚の紙を取り出し、春蘭に手渡した。


「これは、朝廷内における反信長派のリスト…そして…彼らを操るための…計画書です…」


春蘭は、震える手で、紙を受け取った。

そこには、春蘭の父である花山院忠輔の名も…記されていた…。


「私は、すでに、二条家の家臣たちの中に、我々の協力者を送り込んでいます。彼の名は、藤原頼長。尹房の側近の一人です。彼は、尹房の悪事を暴き、彼を失脚させるための証拠を集めています…」


「そして…尹房が失脚した時…、いや、その前にでも…信長に、二条家だけでなく、他の公家や寺社も、彼に敵対しているという偽の情報を流します。

朝廷内には、信長を疎ましく思う公家や寺社が、数多く存在する…とね…」


「そして…彼らを利用するのです。信長が都に攻め込んできた時、彼らを扇動し、信長軍を内部から崩壊させる。そして、混乱に乗じて、信長を討ち取るのです…」


春蘭は、漣の冷酷さに、戦慄した。

(信長を…利用した後…消す…?)

そして、父までも…?


「しかし、それは、あまりにも、危険な…」


春蘭は、言葉を詰まらせた。


「危険? いいえ、春蘭様。これは、藤原家を守るために、必要なことです」


漣は、春蘭の言葉を遮ると、彼女の両手を握りしめた。

彼の言葉は、力強く、春蘭の心を揺さぶった。


(…父上…許してください…)


春蘭は、心の中で、父に詫びた。


(…でも…私は…藤原家を…守らなければならない…)


春蘭は、震える声で、答えた。


「分かりました、漣様。あなたの計画に…従います…」


漣の目が輝いた。


「春蘭様、ありがとうございます。これで、藤原家の未来は守られます」


春蘭は、漣の言葉に、安堵と共に、何とも言えぬ恐怖を感じた。


(…これが、藤原家を守るために必要なことなのか…?)


その時、春蘭の胸に、強い不安がよぎった。


その頃、尾張では…


「宗則殿、只今、良通殿からの使者が参りました。信長様との会見を承諾されたとのこと」


柴田勝家の屋敷の一室で、宗則は、家臣からの報告に、安堵の息を吐いた。


「よし…!」


宗則は、静かに拳を握りしめた。


数週間前、宗則は、綾瀬と共に、鵜沼城の城主・稲葉山城守良通に接触していた。

良通は、かつて斎藤道三に仕え、その才を認められた人物であったが、龍興の代になってからは、冷遇されていた。


宗則は、良通に、信長の器量と、天下統一への大望を伝え、彼を、信長のもとへ導こうとした。

しかし、良通は、容易には心を動かそうとはしなかった。


「信長殿は、確かに、才気あふれるお方…しかし…わしは…斎藤家に…忠義を尽くす…身…」


良通は、宗則の言葉に、首を横に振った。


「良通殿、あなたは…本当に…龍興殿に…忠義を尽くしたいのですか?」


宗則は、良通の目をじっと見つめた。


「龍興殿は、若く、経験不足…美濃を治める器ではありません。このままでは、美濃は滅びるでしょう」


「信長様は違います。彼は、美濃を戦乱から救い、人々を幸せにする力を、持っておられます」


宗則は、良通の心の奥底に、語りかけるように、静かに言った。


「良通殿、あなたには、まだ、迷いがある。しかし、あなたの心は、すでに、信長様に傾いている」


宗則は、陰陽師としての能力を使い、良通の深層心理に働きかけた。


「うっ…!」


良通は、苦しげな表情を浮かべた。

彼の心は、激しく揺れ動いていた。


「信長様に…お会い…して…みとう…ございます…」


良通は、ついに、宗則の言葉に、心を動かされた。


(これで、鵜沼城は、落とせる!)


宗則は、心の中で、静かに安堵した。


(しかし…これで…本当に…良いのだろうか…?)


宗則は、自らの行動に、わずかな罪悪感を、感じていた。


(私は…本当に…正しいことを…しているのだろうか…?)


宗則の心は、激しく揺れていた。


その時、彼の耳に、かすかに、八咫烏の声が聞こえた気がした。


(迷うな、宗則。お前の選んだ道を信じよ)


宗則は、深呼吸をし、心を落ち着かせた。


(私は、信長様の天下統一が、この乱世を終わらせる最善の道だと信じています)


宗則は、静かに、しかし力強く、自らの心に言い聞かせた。


(続く)

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