静寂に包まれた春蘭の書斎。
窓の外には、満月が夜空に輝き、その光が、部屋の中に、淡い影を落としていた。
春蘭は、書斎の奥にある仏壇の前に座り、静かに手を合わせていた。
仏壇には、亡き父・花山院忠輔の位牌が安置されている。
「父上、私は、一体、どうすれば良いのでしょうか?」
春蘭は、苦しげに呟いた。
信長との同盟は、成立した。
しかし、それは、春蘭にとって、決して喜ばしいことではなかった。
信長は、危険な男だった。
彼の野心は、底知れず、彼の力は、計り知れない。
春蘭は、信長が、藤原家を利用しようとしているだけではないかと、疑っていた。
(信長は、二条卿を排除した後、次は…藤原家を…?)
春蘭は、不安に駆られた。
その時、襖が開き、漣が部屋に入ってきた。
「春蘭叔母上、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
漣は、春蘭に丁寧に尋ねた。
「ええ、どうぞ」
春蘭は、漣に席を勧めた。
「宗則殿は、無事に尾張へ到着したのでしょうか?」
漣は、春蘭に尋ねた。
彼の瞳は、鋭く光り、春蘭の心を見透かすようだった。
「ええ。白雲斎様の寺に立ち寄った後、尾張へ向かったそうです」
春蘭は、答えた。
「そうですか」
漣は、意味深な表情で呟いた。
その表情は、春蘭の不安を、更に掻き立てるものだった。
「漣様、何か気になることがあるのですか?」
春蘭は、漣の様子を見て、尋ねた。
「春蘭様、あなたは信長を信用しておられますか?」
漣は、春蘭の質問に答える代わりに、問い返した。
「信長様は、危険な人物です。しかし、藤原家にとって、必要な存在でもあります」
春蘭は、慎重に言葉を選びながら答えた。
信長を頼らなければ、二条家の陰謀を阻止することはできない。
しかし、信長を信用すれば、藤原家は、彼の野望の犠牲になるかもしれない。
春蘭の心は、板挟みになっていた。
「信長は、天下統一を目指しています。彼の野望を止めることはできません」
「しかし、信長は、藤原家を利用しようとしているだけかもしれません」
漣は、冷徹な表情で言った。
彼の言葉は、春蘭の心の奥底にある不安を、容赦なく抉るようだった。
「信長は、藤原家の力を借りて、朝廷を掌握し、自らの権力をさらに強固なものにしようとしているのです。そして、用済みになれば…藤原家を…切り捨てるでしょう…」
春蘭は、漣の言葉に言葉を失った。
漣の言葉は、彼女の最も恐れていたことだった。
「春蘭様、あなたは信長に騙されているのです」
漣は、春蘭に近づくと、彼女の耳元で囁いた。
彼の声は、甘く、それでいて、底知れぬ冷たさを秘めていた。
「信長を信用してはいけません。彼を利用するのは、我々の方です」
漣は、春蘭の肩に手を置き、冷たい目で彼女を見つめた。
彼の視線は、春蘭の心を、支配しようとするかのようだった。
「わたくしには、ある計画があります。この計画を実行すれば、信長を我々の思い通りに操ることができます」
春蘭は、恐怖と好奇心が入り混じった声で尋ねた。
「どんな計画なのですか?」
「信長には、二条家だけでなく、朝廷内には、信長を疎ましく思う公家や寺社が、数多く存在すると吹き込みます。そして…彼らを利用するのです…」
蓮は、懐から一枚の紙を取り出し、春蘭に手渡した。
「これは、朝廷内における反信長派のリスト…そして…彼らを操るための…計画書です…」
春蘭は、震える手で、紙を受け取った。
そこには、春蘭の父である花山院忠輔の名も…記されていた…。
「私は、すでに、二条家の家臣たちの中に、我々の協力者を送り込んでいます。彼の名は、藤原頼長。尹房の側近の一人です。彼は、尹房の悪事を暴き、彼を失脚させるための証拠を集めています…」
「そして…尹房が失脚した時…、いや、その前にでも…信長に、二条家だけでなく、他の公家や寺社も、彼に敵対しているという偽の情報を流します。
朝廷内には、信長を疎ましく思う公家や寺社が、数多く存在する…とね…」
「そして…彼らを利用するのです。信長が都に攻め込んできた時、彼らを扇動し、信長軍を内部から崩壊させる。そして、混乱に乗じて、信長を討ち取るのです…」
春蘭は、漣の冷酷さに、戦慄した。
(信長を…利用した後…消す…?)
そして、父までも…?
「しかし、それは、あまりにも、危険な…」
春蘭は、言葉を詰まらせた。
「危険? いいえ、春蘭様。これは、藤原家を守るために、必要なことです」
漣は、春蘭の言葉を遮ると、彼女の両手を握りしめた。
彼の言葉は、力強く、春蘭の心を揺さぶった。
(…父上…許してください…)
春蘭は、心の中で、父に詫びた。
(…でも…私は…藤原家を…守らなければならない…)
春蘭は、震える声で、答えた。
「分かりました、漣様。あなたの計画に…従います…」
漣の目が輝いた。
「春蘭様、ありがとうございます。これで、藤原家の未来は守られます」
春蘭は、漣の言葉に、安堵と共に、何とも言えぬ恐怖を感じた。
(…これが、藤原家を守るために必要なことなのか…?)
その時、春蘭の胸に、強い不安がよぎった。
その頃、尾張では…
「宗則殿、只今、良通殿からの使者が参りました。信長様との会見を承諾されたとのこと」
柴田勝家の屋敷の一室で、宗則は、家臣からの報告に、安堵の息を吐いた。
「よし…!」
宗則は、静かに拳を握りしめた。
数週間前、宗則は、綾瀬と共に、鵜沼城の城主・稲葉山城守良通に接触していた。
良通は、かつて斎藤道三に仕え、その才を認められた人物であったが、龍興の代になってからは、冷遇されていた。
宗則は、良通に、信長の器量と、天下統一への大望を伝え、彼を、信長のもとへ導こうとした。
しかし、良通は、容易には心を動かそうとはしなかった。
「信長殿は、確かに、才気あふれるお方…しかし…わしは…斎藤家に…忠義を尽くす…身…」
良通は、宗則の言葉に、首を横に振った。
「良通殿、あなたは…本当に…龍興殿に…忠義を尽くしたいのですか?」
宗則は、良通の目をじっと見つめた。
「龍興殿は、若く、経験不足…美濃を治める器ではありません。このままでは、美濃は滅びるでしょう」
「信長様は違います。彼は、美濃を戦乱から救い、人々を幸せにする力を、持っておられます」
宗則は、良通の心の奥底に、語りかけるように、静かに言った。
「良通殿、あなたには、まだ、迷いがある。しかし、あなたの心は、すでに、信長様に傾いている」
宗則は、陰陽師としての能力を使い、良通の深層心理に働きかけた。
「うっ…!」
良通は、苦しげな表情を浮かべた。
彼の心は、激しく揺れ動いていた。
「信長様に…お会い…して…みとう…ございます…」
良通は、ついに、宗則の言葉に、心を動かされた。
(これで、鵜沼城は、落とせる!)
宗則は、心の中で、静かに安堵した。
(しかし…これで…本当に…良いのだろうか…?)
宗則は、自らの行動に、わずかな罪悪感を、感じていた。
(私は…本当に…正しいことを…しているのだろうか…?)
宗則の心は、激しく揺れていた。
その時、彼の耳に、かすかに、八咫烏の声が聞こえた気がした。
(迷うな、宗則。お前の選んだ道を信じよ)
宗則は、深呼吸をし、心を落ち着かせた。
(私は、信長様の天下統一が、この乱世を終わらせる最善の道だと信じています)
宗則は、静かに、しかし力強く、自らの心に言い聞かせた。
(続く)