櫂の言うとおり、秋の精は間違いなく照れ屋だった。いつまでも夏の精たちが踊りに
まだまだ残暑が厳しくて、夏と言ってしまっても差し支えない日々の中で、薄らと秋の形が見え始めた。
「はる。お待たせ」
「櫂さん。何かあったんですか?」
昨日までと同じ顔で、意味深な言葉を告げる櫂は、秋の空の様に澄んで晴れやかに見える。
相変わらず毎日会いに来てくれる櫂の表情が、少しずつ淀んでいくのが心配だった。
「準備が、整ったんだ」
「準備って何のですか?」
「えっ? はるは、何のために桃を食べたの?」
「あ、その準備ですね」
別に忘れていたわけじゃない。ただ、今のこの生活があまりにも平和で、心のどこかでその日が来なければ良いなぁなんて、思ってたのかもしれない。
「僕は僕で、ここまで色々と準備していたのだけど。はるが嫌なら、やる必要もないんだよ」
「嫌なわけじゃ……ないです」
多分。
自分の気持ちとはいえ、ちょっと自信がない。
私、やりたくないのかな。
「本当?」
「はい。自分で決めたことですから」
平和だけど、まるで足踏みをしているような生活。その生活ももちろん嫌いじゃない。
それでも私は私自身の為に、やるって決めたから。
「無理しなくて良いんだよ。何のためになのかは、未だにわからないままだろう?」
「えぇ。そうなんですけどね」
何のために……か。
「櫂さんは、知ってるんでしょう?」
「あ……うん。知ってる」
「教えてもらえないのは、仙帝のためですか?」
「いや、違う。あの方のために僕が何かすることはないよ」
「どうしてっ?!」
これだけ一緒に居てくれるけど、櫂は仙帝側の人だよね?
それなのに?
「僕には僕の事情があるからね。はるにその事情を背負わすわけにはいかないよ」
「それなら何で……」
「教えてもらえないかって? はるが桃を食べて消えてしまった記憶。そこにあまりに近いものは、どんな影響があるかわからないからね。もどかしいけど、伝えられない」
仙帝のためじゃなくて、私のため?
「私、てっきり仙帝のためになるからだって思ってました」
「まぁ、そう思うのが普通だよね」
櫂の笑顔は、秋風みたい。爽やかの中に、ほんの少し冬の寒さを混ぜた様。陽射しは夏の名残を背負ったまま、通り過ぎる風はどこか冷たさを含んで。照れ屋な秋は、途端に冬の後ろにその姿を隠してしまうのだろう。
「櫂さんには、本当にお世話になってばっかりですね」
「突然どうしたの?」
「いいえ。いつも、ありがとうございます」
お礼を伝えても伝えても足りない。
本当は、私の隣に住んでたのも櫂なんじゃないかって思ってる。
私が忘れちゃったから。どこか変わっちゃったから。こういう形でしか、居られないのかな。
「お礼なら、僕にもミルクティー? 作って欲しいな。尚には飲ませたんだろう?」
俯いた私の顔を覗き込んだ王子様。
強くて、頼りになって、優しくて。
櫂に思われる相手が羨ましい。
「ふふっ。飲みたかったんですか?」
「そりゃね。はるが作ったものなら、きっと美味しいだろうからね」
「わかりました。用意しますね。中へどうぞ」
私が櫂にできる唯一のお礼。珍しくそれを求めてくれたから。
私の気持ちを精一杯込めよう。
いつも本当に感謝してること。もしかしたら、私自身も気づかない、それ以上の気持ちがあるかもしれないこと。
全部この一杯に込めて。
この残暑で嫌な甘さにならない程度にした、櫂の好みの少し甘みの強いミルクティー。
「どうぞ」
「ありがとう。僕よりも先に尚に振る舞ったって聞いて、少し妬けちゃうね」
「えっと……あれは……」
「冗談だよ。尚はあんな感じだからね。はるから歩み寄ってくれるとありがたいよ」
そう言って微笑んだ櫂の顔は、いつも私に見せてくれる以上に優しげで。
尚相手にならそんな顔もできるんだって、心の中に渦巻くのは、ヤキモチ?
「そういえば、尚とは会ってる?」
「はい。尚さんも、よく顔を出してくださいますよ」
「へぇ。僕とは三人で会って以来なんだけどね」
櫂の言葉にはどこかトゲがあって、何だかいたたまれない。
「す、すいません」
「謝ることじゃないよ。少しからかいすぎたかな。今日も本当なら姿を見せるはずなのに、まだ来やしないし」
「尚さんのことも、呼んだんですか?」
「そのつもりだったんだけど……。まぁ、ここで話しておけば大丈夫だろうから」
「それって……どういう……」
「尚にはね、お見通しってことさ」
『お見通し』そんな何でもない言葉が、頭の隅に引っかかる。それは指先に刺さったトゲみたいに、痛い様な痒い様な。それを気にすればするほど、ズキズキと頭全体に痛みが広がる。
この頭痛は桃を食べた副作用なのかな。
抜けないままにしてあるトゲはいくつもあって、刺さったままだったことを不意に思い出させてくる。
忘れておかなきゃ。
痛みに耐えきれずに、早く忘れようとしてる自分が居て。風化したトゲも少なくはない。
「はる? 大丈夫?」
「大丈夫です」
心配そうな櫂の顔を吹き飛ばす様に、何事もなかった顔を見せる。
櫂には心配かけてばかりだから。
「それなら、本題に入ろうか」
「はい」
櫂の声のトーンが一つ下がって、いつもの冗談めいた声色は姿を消した。
「仙帝がどこにいるかは、はるが知ってたよね。大抵の時間はあの館にいるから、突撃すれば会えると思うよ。周りに他の仙人達がいない様にしたかったけど、流石に全員は無理だ」
「いない様にって……」
「そのために少し時間をもらったんだ。表立って協力はできない代わりに、これぐらいね」
「そしたら、館には……」
「わずかな仙人と、木偶。それと仙帝だけ」
櫂の根回しに、驚きと嬉しさ。そんないくつもの感情が押し寄せて、溢れそうになる。
「そんなの、大変だったんじゃないんですか?」
「これからはるがやろうとしてることに比べれば、何も大変じゃないよ」
「でもっ……」
溢れた感情は、どうやっても言葉にはならない。舌に乗せられなかった感情が、ついに目から零れた。
「本当は隣に立っていたいのに、そんな風に泣かれたら、僕はどうすればいいかわからなくなるよ。当然って思っておけばいいさ」