「それほどその女が大事か。ひとり寂しく島に籠っている貴様には、無用な感情ではないか?」
「そうかもしれぬ……もう」
『報われない』
仙帝と言葉の応酬を続けていた尚の音が消えて、唇だけがそう動いた気がした。
「尚、しっかりしろ」
何かを思い出した様に俯いてしまった尚に向かって、櫂が声をかけた。
「あ、あぁ。悪い。私の思いがどうであれ、お前を許せない気持ちは変わらない」
櫂の言葉にもう一度顔を上げた尚の手のひらには、また新たな玉が出来上がる。
それを見ながら、仙帝が少しずつ後退りをし始めたのは、見間違いなんかじゃない。
「それで私を仕留めるか? その後は親の様に仙帝にでもなろうというのか?」
「仙帝? 何度も言うが、その地位に興味はない。そもそもこの島に近づくつもりもなかった」
「その様なことを
「好きに言えば良い。その座に価値など、欠片も感じてはおらぬ。だが、お前が木偶を生み出せぬようにはさせてもらおう」
尚の顔が不敵に歪んだ。
そして、手のひらに生み出された玉は、一瞬のうちに音もなく仙帝の頭上へと浮かび上がる。
激しい音を立てて爆ぜた玉から飛び出したのは氷の柱?
それがまるで仙帝を取り囲むように地面に突き刺さった。
その上には蓋をする様に氷の玉が置かれて、さながら氷でできた檻だ。
檻の中に捕えられた仙帝に向けて、尚が新たな玉を作り出す。
それは色を変え、大きさを変え、手のひらから今にも放たれそうな玉が落ち着かない様子で暴れ回った挙げ句、小さな氷の
「一撃で終わらせても良かったが、もうこれ以上は必要ないだろう。それにお前の生を無理矢理終わらせれば、私は両親に合わす顔がない」
檻の中に仙帝を捕らえたまま、尚が背を向けた。
「櫂、はる。後は好きにすれば良い。其方達だって、散々な目に遭わされてきたはずだ。私のすべきことは、ここまでだ」
「尚、本当にこのままで良いのかい?」
「構わぬ。其方に頼みたいことは一つだけ。二度と木偶を生み出せぬ様、仙帝の座には別の者を置いて欲しい」
「仙帝は、尚さんがなるんですか?」
「ははっ。冗談もほどほどにするんだな。私がなれるはずがない」
尚の笑い声は心底楽しそうにも、どこかから笑いの様にも聞こえて。その本音を垣間見ることもできない。
「でもっ。仙帝を倒したのなら……」
仙帝になるんじゃないの?
私の言葉の終わりを待つこともなく、尚の目の前に作り上がるバランスボール。
その上に座ったかと思えば、あっという間にどこかに飛び去ってしまった。
「参ったな。尚が本気で姿を消してしまえば、僕にはその姿を見つけられない」
「櫂さん」
「やっぱり、この後始末は僕の仕事か」
尚が飛び去った先を目で追っていた櫂が、檻の中に入れられたままの仙帝に目を向ける。
「尚に言われてしまったからね。貴方から仙帝の座を貰い受けることにするよ」
「櫂さんが仙帝に?」
「どうせそのつもりだったはず。ここには私とはる以外いないのに、誰が別の者をって。無茶苦茶だ」
その言葉とは裏腹に、満更でもなさそうな櫂の顔。
「はるは、少し離れていてくれるかな?」
「どうしてですか?」
「仙帝の座を貰い受けるのにね、名前が必要なんだ。こんな男の名前でも、誰にでも触れ回って良いものではないだろう?」
「名前?」
「あぁ。相手の名前を預かって、その座を貰い受けるんだよ。名前を知られてしまえば、もう好き勝手はできないからね。もちろん、どうやって手に入れるかは自由だけど、僕としてはこのまま平和に預かりたいかな」
名前を知られれば、好き勝手はできないの?
櫂の名前も、それしか知らない理由はそれ?
私の頭の中には、疑問ばかりが渦巻いていて、それでも櫂と仙帝の間では静かに話し合いが行われていく。
櫂に言われた通りに、一歩二歩とその場から離れれば、一瞬仙帝の身体から全身の力が抜け落ちたのがわかった。自重すら支えておけなくなった膝が崩れ、まるで櫂を前に跪いているように見える。
「はる。終わったよ」
檻の中で跪いたままの仙帝に声をかけることもなく、櫂は私に向かって微笑む。
「櫂さんは、仙帝になりたかったんですか?」
他に誰もいなかったとはいえ、尚の言葉を受けて 決心するにはあまりにもあっさりしていた様に思う。
元々、そのつもりだったのかとすら疑ってしまうぐらい。
「んー。そうだね。進んでやりたいとは思ってなかったかな」
「それでも、簡単に引き受けましたよね?」
「簡単?! そっか、そう見えたかもしれないね」
嬉しくてたまらないとでも言いたそうに、あははっと笑い飛ばして見せた。
「尚が珍しく僕に頼みごとをしてくれたからね。つい嬉しくなっちゃったのかも。それに、僕が仙帝になれば解決するのにって思ってることも多い」
「ご両親のこととかですか?」
「ん? それもあるけど……他にもね」
櫂が私のことを真っ直ぐ見てくれる。
他? 私のこと?
その視線に言葉の内側に隠された思いを探るけど、次の瞬間にはいつもの王子スマイルが煌めいて。もうその先を探すことはできない。
「仙帝はあのままで良いんですか?」
檻の中の仙帝への興味はとうに薄れてしまっていたみたい。
「そのうち檻も溶けて消えると思います。そうすればどうぞお好きなところへ。貴方の名前は私が預かっておりますので、それだけはゆめゆめ忘れずに」
そう言葉を投げかけた。
「さぁ、僕たちも一度戻ろう。この後は少し忙しくなりそうだし、束の間の休息だ」
櫂が目の前に天馬を作り出して、その上に二人で座る。かなり仙力を使ってしまった私への、温かな気遣い。
大きくなってからは少し恥ずかしくも思うけど、背中に感じる櫂の体温が心地よくて。
天馬の手綱を持つ手が私を抱きしめてくれてるみたいで。
私、櫂のこと――
不相応な気持ちが、芽を出そうとしてる。
このまま、育てていいのかな?
頭の奥の方が鈍い痛みを発して、私に何かを訴えた。