気がつけば針峰山を出て、幾分の間空を飛んだだろうか。周りを見渡せば一面に広がる草原。
間もなく夏の精が踊り出す。その時を今か今かと待ち侘びながら、その身を大きく伸ばす植物。
遥香と出会ったのも丁度この辺りだったと、突然上空から降ってきた出会いを懐かしく思い出す。
何もない空中から舞い降りた女性。
あのままでは地面に激突してしまうと、膜を作り出したのが失敗だったのか。
女性だった体が、徐々に少女になっていく様子に押し寄せた後悔。
申し訳ない気持ちの中で、何とか衣服だけ作り出し、その場を立ち去るしかなかった。
私と共にいる所を誰かに見咎められてしまえば、彼女の仙人としての日々が暗いものになってしまう。
私は誰かと共に居てはいけないのだから。
遥香がその後誠弦と緑弦と出会って、村に行くまで見届けた。
私以外の仙人に見つかりはしないかと、木偶が襲ってくる様なことはないかと、島と村を往復する日々も今はただただ懐かしい。
もうあの様に心配することもない。
前仙帝を捕らえたあの日、櫂がそのままその座を受けたと聞いた。
櫂ならば、その強さも生い立ちも性格も、非の打ち所がない。その地位にうってつけの人物だとさえ思う。
これでもう、私があの島にいる必要もなくなった。私の色を気にする者も、木偶がやってくることもない。
それでも今まであの木の下で過ごしてしまった。離れがたいと、今日まで日にちが過ぎ去った。
なんという女々しさか。
家も持たぬまま、癒しの空気だけを吸う日々。遥香が知ったら、また怒られてしまうだろうか。
いや、もうそんな心配をされることもない。
桃の力によって京香に忘れられ、今度は遥香に忘れられた。どれも、両親のことすら忘れてしまった私への罰。忘れられる者の苦しみを受けるべきなのだろう。
慣れ親しんだ空の通り道は、いつしか私を懐かしい村へと導いて。目の前に現れたのは誠弦の家。
ここに居る時の遥香は、本当に幸せそうだった。仙人にされたことにすら気づかず、あの小さな体で精一杯暮らしていた。
それなのに、離れることを決めさせた。
もし私が仙人にしていなければ?
櫂の様に馬に乗っていれば?
膜で覆ったりしなければ……。
「どーも」
目の前の家から出てきたばかりの緑弦が、上空へ送った視線の先。
家を見ながら思考に耽っていた私と、目が合った。
「あ……」
「その姿、仙人様だろ? まだ、うちに何か用?」
これまで、何度だって家の様子を伺っていたが、こんなことは初めてだった。
緑弦から向けられるのは、敵意を含んだ目。仕方ない。彼にとっては、遥香を連れ去った者と同族なのだから。
「いや、そのようなことは……」
初めて緑弦の姿を見たときは、まだあれ程幼い少年であったのに。
立派に成人の儀を迎え、人として一人前の生活を送っているその姿は、凛々しく逞しい。
あの勇猛とした体躯を持つ誠弦の息子。この体つきも当然の理。
仙人として、仙力の扱い方と共にその体を成長させた遥香となら、似合いの相手だろう。
遥香が気にしていた『迷惑をかけてしまう』事情は、今なら払拭できるのではないだろうか。
遥香がそれを知ればここに戻りたいと願うのではないか?
緑弦がそれを知ればまた共にありたいと願うのではないか?
二人がそう望むのであれば、また以前の様に暮らすのが幸せなのでは……。
「それなら、何しに来た? はるかを連れて行って、次は何を持って行こうっての?」
「そ、其方は遥香に戻ってきて欲しいと、そう望みはしないのか?」
「は? 無理矢理はるかを連れて行って、今更何だって? はるかのこと、邪魔にでもなった?」
「そうではない。そのようなこと、あるはずがない」
「それじゃ何? はるかがこっちに戻りたいって言うなら、もちろん俺たちは歓迎する。その代わり、もう二度と仙人界へは返さない。俺が死ぬまで、はるかを守る。寿命? そんなの知ったことか」
私の言葉に、緑弦を取り巻く空気が更に熱を持つ。重く立ち込めた底で熱く淀む空気。
仙人界に二度と、遥香が戻ってこない?
遥香の笑顔は、この男に向けられるのか?
「そんなことは許せない」
「お前が言い出したんだろ?」
「そう、なのだが」
頭の中が、気持ちが、冷静ではいられない。時期を見誤った。こんな心情のまま、緑弦に会ってはいけなかった。
「はぁっ。仕方ないな。まずは上がれよ」
何を言いたいのか要領を得ない私に向けて大きなため息を吐きながら、緑弦が部屋の中へと顔を振った。
「何か、あったんだろ? 仙人様の顔はそれが普通かもしれないけど、酷い顔してる。まぁ、座れよ」
部屋の中、緑弦に勧められた椅子に、素直に腰を降ろした。
「それで? はるかがこっちに戻ってきてくれるの?」
「遥香がそう望むなら、それでも良いと思ったはずなのだが」
「許せないって、そう言ったよな?」
「あぁ」
「どっちだよ」
緑弦の言葉に、ただただ俯くしかなかった。
遥香がどうしたいのかなんて、知るわけもない。
今の私には、知る術もない。
「わからぬ」
「何が? はるかの気持ち? それとも、自分の気持ち?」
「どちらも、わからぬ」
「……はるかはさ、ここには戻ってこないよ」
黙り込んだままの私に、痺れを切らした様に緑弦が口を開く。
「何故?」
「はるかにとって俺たちは家族で、俺は『お兄ちゃん』だから」
「どういうことだ?」
誠弦と緑弦のことを、遥香が慕っているのは違いない。間違いなく、好意を持っているはずだ。
それなのに、何故戻らぬ?
「あのさ。お前が、尚?」
「いかにも。私が尚だ」
「それなら、尚更話したくないな」
「私に、何か問題があるということか?」
私はまた、気づかぬうちに遥香の選択肢を狭めてしまったのか?
「違うって。だから、そんな顔するなよ。調子狂わされる」
「だが……」
「はるかが仙人だってわかる前から、ずっと俺が見守ってきたのにな。お兄ちゃんなんて、損な役だと思うだろ?」
お兄ちゃん? 緑弦が? 損とは何だ?
「俺が何もせずに手をこまねいていたとでも思ってる?」
どういうことだ?
緑弦の言葉に、理解が追いつかない。
「俺は、もう自分の気持ちは伝えてるってこと。それでもはるかにとって家族で、お兄ちゃんだって。こんなこと、言わせるなよな」
「家族……」
「そう。はるかには側にいてやりたい奴がいるって。力になりたい奴がいるんだってさ。誰のことか、分かるだろ?」
誰……櫂か? それとも……。
緑弦を通して伝えられる遥香の気持ちに、思わず顔に熱が上る。
「あの言い方は、何度かここに来た櫂ってやつじゃない。最初に櫂が言った、仙人界で待ってる奴。尚だって言ってたよな」
遥香が私のことを?
緑弦に対してその様に言ってくれていたこと、初めて知る遥香の思いに嬉しさが込み上げる。
「私のことだと?」
「あのさぁ! 嬉しいのわかるけど、もう少し隠せよ。だから話したくなかったんだ」
緑弦が私の顔を見ながら悪態をつくも、先程までの敵意ばかりではない。苛立ちと呆れ、その中に混じる優しさ。
遥香が、彼を慕うはずだ。
好いていると、そう頬を染める彼女見ながら私の中に膨らんだのは嫉妬心。
私などに、このように話をしてくれる緑弦とは比べるのもおこがましい。
「私など、そのように思われるわけがない」
「仙人様がどんな人か知らないけど、俺の前で言って良い言葉じゃないよな」
「す、すまない」
「だから、はるかはここには戻ってこない。そっちで幸せにしてやってよ。それでさ、少しでも俺に同情してくれるなら、はるかをつれて遊びにきて」
「わかった。約束しよう」
私では、それもできぬが。
もし万が一にも私にその機会がめぐってくるのであれば、私のできる精一杯を遥香に捧げよう。
遥香が幸せになれるように。もう何も失う必要のないように。
何にも気兼ねすることなく、仙人としての生活を楽しめるように――