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第53話 もう忘れたりしない 2

「いやあぁあ!」


 落ちる! 落ちる!! 落ちる!!!

 誰か助けて!

 もがきながら何とか仙力をかき集めても、私の手のひらから出ていくのは水玉ばかり。

 役に立たない水たまりが広がるばかりで。

 余計に焦ってしまえば、落ち着いて絨毯なんか出せやしない。


 天馬がこっちに向かって駆けてきてくれるのを見て、助かったって安心できる。

 ただ、天馬よりも先に私を包み込んだのは、スライムを触った時のような抵抗感の後の、分厚い空気の層。

 それに包まれた途端に体が落下するスピードが弱まった。

 何、これ?

 まるで木の葉が舞う様にふわふわと地上に向かっていく速度は、ほんの少しだけ気持ちが良い。

 風船の中に入って空を浮かびながら、徐々に近づいてくる地面。

 また、背中から落とされる!

 また? 何で? この風船、初めてじゃない。


「大丈夫か?」


 風船はゆっくり地面の上に落ちて、割れた。

 そして目の前に現れた漆黒の髪。切れ長の目。その整った顔を見た途端、どこからか流れ込んでくる映像。

 走馬灯のように見えるって、きっとこういうこと。

 それでも、私の頭の中を駆け巡る映像は、全部同じ人を写していて。

 これは、私の記憶だ。


「今度は、最後まで作っててくれたんだね。風船」


「最後……ってまさか」


「尚、助けてくれてありがとう。これまで、忘れててごめんね」


「は、遥香……」


 尚の顔を見た最後の記憶。蘇ってきた記憶の、一番最後で溢れ落ちそうだった涙が、今雫になって頬を伝った。


「忘れないって言ったのにね」


「よかっ……よかった……」


「うん。待たせてごめんね」


「……また会えて、よかった……」


 涙と嗚咽に遮られながら、絞り出された尚の声。


「うん……」


 喉から声を絞り出して、溢れた涙をそのままに立ちすくむ尚の手を、そっと握る。


「思い出してもらえるなんて……思いもしなかった。忘れられるのは、私への罰だと……」


「忘れた私が、悪いんだよ」


 尚の手はひんやりと冷たくて、小刻みに揺れていた。


「遥香は何も悪くない。桃を食べるまで、私が追い詰めた……」


「桃で失った記憶が戻るなんて、聞いたこともないよ」


 手を握ったままの私たちに、天馬がすうっと近づいてくると、櫂が驚いた声でそう言った。


「櫂さん」


「二人とも、良かったね」


 櫂のいつもの笑顔に、記憶を無くしてからの日々を思い出す。尚のことを忘れて、櫂に頼って。

 何も言わずに手を貸してくれた櫂に惹かれていた自分。淡い恋心は消えたりなんてしない。

 それでも、今はっきりと形づいて溢れ返る想いが、私の中に間違いなく存在していて。

 私の想いを知っていて、待つって言ってくれたんだよね。


「ありがとう、ございました」


 櫂の思いを想像すれば、伝えるべきなのはそれしかなくて。

 深く下げた私の頭を、櫂が優しく撫でてくれる。


「並べて比べてもらうのは、まだまだこれからだよ」


 櫂の煌めく王子スマイルには、つい心が弾んでしまう。

 ずっと、何を考えていたのかわからなかった櫂への懸念がなくなれば、本当の王子様じゃない?


「えっと……」


「僕が何もせずに引き下がるなんて、するはずないだろう?」


 櫂の視線は、私から尚へと移っていって、その言葉と口元に浮かんだ不敵な笑みに、尚の体がびくつく。


「今日は君に譲るよ。さっきまで僕は、二人きりの散歩を楽しませてもらったからね」


 近寄ってきた天馬はもう一度その体を空に貼り付けて、瞬く間に消えた。




「櫂と違って、上手くは作り出せないのだが……」


 尚が作り出すのは羽のない馬。それに跨った尚が、私に向かって手を差し出した。


「わ、私っ。自分で絨毯作るから……」


 この体で、馬に二人で乗るのは恥ずかしすぎる。

 さっきの櫂の距離に、尚がいるなんて。

 考えただけで顔に血が上る。


「やはり……私の馬は乗り心地が悪いか」


「えっ? ち、違う! そういうわけじゃなくて」


 だから、恥ずかしいんだって。


「櫂とは、さっきまで乗っていたのにな」


 拗ねたように呟く尚の顔は、捨てられた子犬みたいに不安気で。

 そんな顔する人じゃなかったよね?

 いつだって堂々としてて、何事にも動じないような顔で、どんな規格外もさらっとこなして。

 目の前の尚の姿と、記憶の中の尚の姿との相違に困惑してしまう。


「そうなんだけど……」


「櫂となら良くて、私とではできないということか……まぁ、それも仕方あるまい」


 諦めたような声を出す尚は、またどこかへ消えてしまいそうで。その袖を必死に掴んだ。


「尚とはできないってことじゃなくて……わかった。乗るよ。一緒に、乗せて?」


「あぁ。おいで」


 スッと出された手と、嬉しそうな笑顔。

 尚が喜んでくれたのは、確かに嬉しいんだけど。

 この人、誰?


「どこに行こうか?」


 馬に二人で跨って、ふわっと空に浮かび上がれば、耳元で聞こえる尚の声。

 私を取り囲む様に添えられた手は、手綱を握るだけなのに、何故だか包み込まれてるみたいで。

 心臓が飛び出しそう。


「ど、どこでも、いい」


「行きたいところはないのか?」


「これといって、思いつかなくて……」


 尚と一緒になんて、どこへ行くことも想像できない。


「ならば、仙人島に行こう」


「仙人島?」


「あぁ。もう、何の気兼ねもなく仙人島に行ける。はるのおかげだ」


「私の?」


「そうだ。はるが力を貸してくれたから。そうでなきゃ、今でも仙人島を歩くことすらできなかっただろう」


 櫂が仙帝となった仙人島。もう誰も尚のことを気にしたりしないよね。

 いつ、どこから木偶が襲ってくるかわからない日々。仙帝の目を気にして、息を潜めるように暮らす生活。

 その全部に終わりがきた。


 ゆったりと飛び続ける馬は、いつの間にか仙人島の上空を優雅に駆ける。

 尚が穴だらけにした館も、何もかも壊してしまったその周りも、今ではそんな跡すらない。

 仙帝が代わったところで、仙人達には何の影響もないみたいに、今日も各々の日々を謳歌してるように見える。


「私、尚に恩返しできたかな?」


「恩返し? するべきなのは私の方だろう?」


「命を救ってくれて、島で暮らせるようにしてくれて。こんなに大きくなれたのだって、尚のおかげだよ。だからね、ずっとお礼をしたいって思ってたの。本当にありがとう」


 馬の上に乗りながら、尚の方を向いて頭を下げる。尚の胸元に顔を埋めるような体勢になってしまったのは、わざとじゃない。


「礼を言いたいのは私の方だ。はるがいなければ、こんな日々を送ることも、それを望むことすらしなかった。仙帝からの攻撃をいなしながら、ただ無意味に消費していくだけの日々。それが最期の日まで続いていくのだと、そう思って疑いもせず」


 尚の声は私の頭上で響いて、エコーがかかった様に何度も何度も反芻されていく。


「はるに出会ったあの日から、私のせいで仙人にしてしまった少女がどうなっていくのか、気になって仕方なくなった。私の力で助けられるものならと、手助けできない自分の運命を呪った」


 尚の口から紡がれる言葉の海に、沈んでいくような錯覚。言葉の海に溺れて、そのまま動けない。


「離れなければと自分を言い聞かせては、離れたくない欲望に抗いきれず、どんどん惹かれていった。瞼の裏に焼き付けるだけだったはるの笑顔、私に向けてくれることが、これ程幸せだと思いもしなかった。私を思い出してくれて、ありがとう」


 言い終えた尚の唇が、私の頭に一つ口付けを落として離れていった。

 私の中で溢れる尚への想い。


「もう、忘れたりしないよ。だから、一緒に生きていこうね」











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