「……お待たせしました」
「……ああ、出来たんですね……」
相変わらずぽかんとしているタブンくんにうなずき返して、僕は無言で『アトリエ』と案内した。
扉を開けると、まずむっとしたコールタールのにおいが鼻を突く。タブンくんはそれにたじろいでまばたきをした。
ぼんやりと照らし出される室内には、『作品』がある。
その『作品』に焦点が合った途端、タブンくんは目を見開いて絶句してしまった。呼吸さえ止まってしまう。
この『作品』の持つファーストインパクトにこころを殴り付けられたのだろう。あまりにも暴力的で異様な『作品』に、頭の中が真っ白になっているに違いない。
次第にその『作品』の持つ意味を理解してきたらしく、タブンくんの額にびっしりと脂汗が浮かんできた。かたかたと震えながら真っ青になる。くちびるから血の気が引いていき、紫色になっていった。
……やっと、自分がやったことを自覚したらしい。
ここまで明確に当事者であることを突きつけられたのだ、今更モブのままでいようなどというのはムシが良すぎる。
タブンくんの中に、ようやく当事者意識が、『罪』の意識が、『死』の意味が芽生えた。ひとひとり殺したことを実感した。ひとひとりを殺した犯人であることを、とんでもない事をしてしまったのだと、否応なしに突きつけられた。
もう夢の中に安住したままではいられない。
「……僕は、ぼく、は……!!」
顔面蒼白で涙目になったタブンくんは、うわごとのように切れ切れの言葉を嘔吐した。は、は、と犬のように荒い息遣いが聞こえてくる。震えは全身に及び、がくがくと膝が笑っていた。
そんなタブンくんに、疲弊しきった無花果さんが歩み寄る。
そして、にちゃあ、とコールタールの黒と同じくらい悪意を込めて笑い、ささやきかける。
「……『かわいそうに』」
そのごく簡単な一言は、呪いの言葉となってタブンくんのこころを直撃した。
無花果さんは決してタブンくんを憐れんでいるわけではない。むしろ、嘲笑っているのだ。『かわいそう』だなんて、この場面ではどんな罵倒の言葉よりもひどい。
「……う……!」
ひゅ、とタブンくんの喉が鳴る。そして、
「うわああああああああああああああああああ!!!」
ひっくり返った絶叫は、悪夢から叩き起されて、その悪夢よりもひどい現実に直面したもののそれだった。
そう、ひとが発狂する音だ。
完全に精神を破壊されてしまったタブンくんは、こけつまろびつしながら『アトリエ』から、そして事務所から飛び出して行ってしまう。おそらく、もう戻ってくることはないだろう。
「……ああ、こりゃあ狂ってしまったねえ」
全部自分の『作品』の結果だろうに、無花果さんは目を細めてチェシャ猫のようににんまりと笑った。
この分だと、警察に駆け込んで自首することすら難しそうだ。こころを壊されてしまったタブンくんは、もう眠ることも難しくなるに違いない。
それどころか、悪夢から覚めることすらできないだろう。
「……仕方がない、この死体は我々で葬ろう」
こういうことは珍しくないのか、無花果さんは端的に言って椅子に腰を下ろし、ぜい、とため息をついてうなだれてしまった。
……無花果さんは、『お前はバケモノだ』とひどく暴力的な手段でタブンくんに宣告した。そして、それを受け入れられなかったタブンくんは壊れてしまった。今までずっと夢の中に安住していて、いきなり髪を掴んで引きずり起こされたのだ、そのショックは計り知れない。
突然に突きつけられた『罪』の、『死』の重さに耐えきれなくなったのだ。あの『キューブ』のように、ぐしゃり!と押し潰されて、崩壊してしまった。そこには忖度や気遣いなどはなにもなく、ただ事実だけが強烈に自己主張をしていた。
ある意味、ふさわしい末路なのかもしれない。
これもまた、芸術の役割だ。
告発や戒め、訓戒。見るものにおのれの『罪』を問わせる『作品』。否応なしに『死』を想起させる、ある意味露悪趣味とも取れる無花果さんの自己表現のひとつだ。
……これは『罪』を告発し、それ相応の『罰』を与える『作品』だ。
殺人者の『罪』を浮き彫りにして、おのれの中のバケモノと対峙させる。無理やりにその事実に顔を向けさせ、まなこを開かせる。そういう強制力があった。
暴力的な手法によって『罪』と直面させる、そういうちからがあった。
そういう意味では、無花果さんの『作品』はこの上ない劇薬だ。気付け薬にするにはあまりにも危険なくらい。
「……わざとやりましたね?」
タブンくんがいなくなった『アトリエ』で、僕はぽつりと無花果さんに問いかける。いや、問いかけというよりは確認か。
無花果さんは椅子に座ったまま喘鳴と共に言葉をこぼす。
「……さあてね。私はあいつが大嫌いだし、こころない謝罪ほど頭にくるものはないからね、ひとつ思い知らせてやっただけさ」
「それを故意犯と言うんですよ」
「私は『作品』を作っただけ、あとは受け取り手の問題だよ……というのは、あいつと同じで無責任すぎるね。私は私が作り上げた『作品』に責任を持つよ。ひとのこころをひとつ、壊してしまった。これは紛れもない事実だ。今回ばかりは、私もやり過ぎた」
タブンくんと違って、無花果さんは自分のしたことを自覚している。責任を持っているのだ。これもまた、無花果さんの『罪』だ。
芸術という名の圧倒的な暴力を、軽率に振るってしまった。無花果さんほどのアーティストならば、その影響力は分かりきっていたはずだ。それを、感情に任せて行使してしまった。
無花果さんの自己表現は、今回はタブンくんへのいきどおりという形で発現した。
芸術的暴力によってひとのこころを殺したという『罪』を、無花果さんは重く受け止めている。
アーティストには、そんな責任が常に付きまとっている。
表現の自由、とはいうものの、すぐれた芸術家であればあるほどその影響力は強くなる。その矛先の向け方には、充分に気をつけなければならない。
だれかに訴えかける以上、そこには責任が発生する。害を及ぼすかもしれない、そういうことを常に念頭に置いておかなければならないのだ。
無花果さんくらいのアーティストになれば、そこには自由などない。慎重すぎるくらい慎重に振るわなければならないほど、そのちからは大きすぎる。
ただ受け取り手に任せるばかりでは、タブンくんと同じ無責任な悪意の殺人者と変わらない。
無花果さんはそうなることをもっとも忌避している。
「……さあ、君は『作品』の写真を撮ってくれ」
考え込んでいたところでそう言われて、はっと我に返る。
そうだ、僕も共犯者だ。
無花果さんに『罪』があるとすれば、それを理解して同じ『作品』に関わっている僕もまた、同罪だ。
同じモンスターとして、同じ責任を負わなければならない。
僕はこころしてファインダーを覗き、シャッターを切った。悪意が、『罪』が、フィルムに焼き付けられていく。
相変わらず構図もなにもあったものではないけど、こころのままに撮影すれば、それが僕なりの理解となって写真に浮かび上がる。
ぱしゃり、ぱしゃり。さまざまな角度から、さまざまな『作品』の表情を切り取った。何度もシャッターを切り、無意識のおもむくままに『作品』のあとを追っていく。
そう、これもまた無意識だ。無花果さんが抑圧してきたものの解放だ。『作品』を作るに当たって、無花果さんもこころの中の一番脆弱でやわらかい部分を晒しているのだ。
そんな風に思いながら、僕は共犯者としてもうひとつの『殺人』の現場の証拠をカメラに収めていくのだった。