そういえば、依頼人もかれこれ一ヶ月ほど来ていない。タブンくんのあの一件以来、事務所は淡々と日常をこなしていた。
そうなると、僕の仕事は掃除とお使い、あとは無花果さんのお世話という雑用しかない。おかしい。カメラマンとしてこの事務所に雇い入れてもらったはずなのに、この一ヶ月まったく仕事をしていない。
だというのに、やっぱりケタがひとつ多いお給料は支払われていた。もらうたびにおののいているのだけど、どうやら本当にお金は腐るほどあるらしい。なにせ、仕事をしていないバイトに法外な給金を渡すくらいだ。
季節はすっかり初夏になっている。肌寒かった桜の季節は終わり、だんだんと夏が近づいてきている。太陽の暴力が肌で感じられるようになり、今年も暑くなりそうな気配があった。
……そろそろ、またあの『作品』が見たい。
あのたましいを殴りつけるような、芸術的暴力をこのカメラに収めたい。
何度も『作品』にこころを殴られて、僕はすっかりパンチドランカーになってしまったようだ。あの胸の痛みを、苦しさを、また味わいたいと思ってしまう。期待してしまうのだ、芸術によってたましいを蹂躙されることを。
しかし、素材となる死体がなければ『創作活動』は始まらない。望んだところで、素材がなければ『作品』を見ることは叶わないのだ。
そして、その素材を運んでくるのが依頼人だ。つまり、依頼人が来ない限り、無花果さんは『作品』を創ることができない。
他人の死によってのみ、成される自己表現。
そうすることでしか、正常に呼吸することができない。
それを理解するものは僕以外にいないし、ともすれば死者への冒涜として忌避されてしまう。
禁忌を破った魔女として、火刑に処されてしまう。
無花果さんのアートは、呪術のようなものだ。決して表沙汰にはできない、禁断の儀式。思いを、願いを、おのれを込めた、魔女のサバトだ。
そんなサバトに参加して、僕もすっかり魔女(?)に成り果てていた。同じモンスターとして、共犯者として、『創作活動』に加担するようになった。
……それを異常と呼ぶのなら、逆に問おう。
それでは、『正常』とはなんなんだ、と。
一般的な倫理観に則ってお利口さんにしていることが『正常』なのだとしたら、そんなものはクソ喰らえだ。だったら僕は、異常であり続けることを選ぶ。
「まひろくーん」
そんなことを考えていると、所長がのんきに声をかけてきた。我に返って、
「なんですか?」
「視聴者投票でお昼ご飯決まったから、コンビニでカレー買ってきてー。あと電子タバコ、そろそろ尽きそうなんだよー」
「ああ、お使いですね。わかりました。他のひと、なにか要るものありますか?」
デスクに向かってキーボードを叩いている三笠木さんと、『巣』のドアの隙間から手だけを出している小鳥さんに問いかけると、
「私はカフェインとブドウ糖を欲しています」
「わかりました、コーヒーとラムネですね。小鳥さんは?」
リクエストを聞くと、小さな軍手の手は『スーパーカップ抹茶味』と印字された紙切れを見せてきた。
「了解です、買ってきますね」
「小生もついてくー!」
無花果さんが勢いよく挙手して言った。珍しい、誘ってもいないのに外に出ようとするなんて。
意外な提案に、僕がまず視線をやったのは所長だった。『子供』を連れ出すには保護者の了解が要る。でないと事件になりかねない。
所長はなぜか少しの間うなってから、
「……うーん、まひろくんがいっしょなら大丈夫かなー」
渋々、といった苦笑いを浮かべて、許可を出してくれた。
また無花果さんが『やらかす』ことを懸念しているのだろうか。問題が起こったら真っ先に被害をこうむるのはこの僕だと言うのに。もうあのスタバでの惨劇を繰り返してはならない。
「わーい! お出かけだー! お気に入りのくまさんポシェットを持っていこう!」
遠足にでも行くようなノリで、無花果さんはいそいそとロッカーからファンシーなクマのポシェットを取り出した。何も入らないであろう、ものすごく小さいポシェットだ。
颯爽とそれを斜めがけすると、無花果さんはバンザイをした。
「準備完了!」
「……それ、なにが入ってるんですか?」
「キャンディとクッキーとチョコレートさ! いついかなるときでもおやつは必要だからね!」
まさに遠足じゃないか……
たかだかコンビニにお使いに行くだけなのに、大した張り切りようだ。
僕も財布を持ってソファを立ち上がり、
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃーい」
「小生、なに買おっかなー?」
所長に見送られ、僕たちはふたり並んで雑居ビルを後にした。
近くのコンビニにたどり着くと、まずは頼まれたものをレジカゴに入れていく。アイスとコーヒー、ラムネか。タバコは本当は未成年である僕には買えないのだけど、所長から昔懐かしtaspoを預かっているので、これで切り抜けられる。今日は無花果さんもいっしょなので、最悪無花果さんに年齢確認をしてもらえばいいし。
スポーツドリンクやサンドイッチも僕用にカゴに入れて、さてレジに向かおうと振り返ると、無花果さんが消えていた。
……またあのひとは、なにかやらかそうとしているな。迷子ひもでもつけていれば良かった。
イヤな予感満載でコンビニの中を探すと、さいわいなことに無花果さんが見つかった。駄菓子コーナーにしゃがみ込んで、なにやら真剣に吟味している。
「なに買うんですか?」
「うーん、蒲焼さん太郎とチョコバットで悩んでるでござる!」
「両方買ったらいいじゃないですか」
「駄菓子は貴重なお小遣いの範囲内でよく考えて買うものなのだよ! そんなにほいほい大人買いしていてはロマンがない! そんな大人、修正してやるっ!」
「はいはい、わかりましたから、早く選んでくださいね」
すげなく返答した僕を置いて、また悩み始める無花果さん。最終的にはチョコバットに軍配が上がったらしく、まとめて十本くらいレジカゴに入れてきた。大人買いはロマンがないんじゃなかったのか。
そこに突っ込むことなくカゴをレジに置くと、いつものやる気のない店員がやる気なくバーコードを読ませていく。チョコバット十本にも動揺しないところを見ると、やる気はなくてもプロフェッショナルだ。
タバコを追加してお会計を済ませて、店員の『あっしたー』に見送られると、僕たちはコンビニを出た。
外は初夏の陽気で少し暑いくらいだ。
「はい、無花果さんの分」
ビニール袋からチョコバットをまとめて渡すと、無花果さんはにわかに喜色満面になった。
「えへへー! ヤッタネ! 小生、チョコバット大好きさ!」
「それは良かったですね」
「大事に食べよう!」
大量の駄菓子を抱えて、至極ご満悦の様子だ。
駄菓子で大よろこびなんて、大金持ちの割に安い女だな……
そんなことを考えながら、僕は買い忘れがないかコンビニのビニール袋の中身を確認した。アイスがあるから、できるだけ早く帰らなければならない。
「ほら無花果さん、帰りますよ」
「よーし、手をつなごう、まひろくん!」
「イヤです」
「なんで!?」
「無花果さんに一次接触を許してしまったら、なし崩し的に肉体関係に持っていかれそうです」
「ひとをヤングアニマル扱いしやがって! 本当にビーストモード、入るぞ!?」
「そういうとこですよ?」
「くきいいいいいいいいいい!」
地団駄を踏んだせいでチョコバットを取り落としそうになって、無花果さんはなんとか収まってくれた。
そんなこんなをわいわい語り合いながら、僕たちは一路事務所への帰路をたどり始めたのだった。