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№3 季節が巡る

 てくてくと昼下がりの裏通りをふたりで歩く。初夏の空は底抜けに青く、高気圧のおかげで雲ひとつなかった。


「もうすぐ夏が来るねえ、ほら、ツバメが飛んでる」


 同じように空を見上げていた無花果さんが指を指した。何羽ものツバメが、滑るように空を飛び交っている。きっとこれから巣を作り始めるのだろう。そして、ヒナが産まれたら食べ物を運ぶ。


 そのヒナが巣立つときは、もう夏が来ているだろう。あの、うだるような夏。暴力のような直射日光。呼吸が苦しくなるほど湿り気を帯びた空気。夜になってもうるさい蝉の声。


 今年も暑くなると気象予報士が言っていた。


 僕はうんざりしたような声音で、


「いやですね。また暑い思いをしなきゃいけないなんて」


「そうは言っても、冬には『早く夏が来ないかなー』なんて思ってたろう?」


「……ああ、そういえば」


「そうだろうそうだろう、夏が来れば冬を恋しく思う、冬が来れば夏を待ち焦がれる、ニンゲンてのは現金だね」


「たしかに、そうですね」


 無花果さんらしい物言いに、僕は思わず苦笑した。


「小生、夏は好きだよ?」


「暑いのが好きなんですか?」


「うん、暑くて暑くて頭がおかしくなって、そうしたらもう全部夏のせいにできるからね」


 またしても無花果さんらしい。くすりと笑って、僕は歩きながらぼんやりとつぶやいた。


「また季節が巡るんですね」


「そうだよ、時と共に季節は巡る。その円環からは決して逃れられないんだ。春を見送り、夏を葬り、秋を弔って、冬を看取る。ニンゲンという生き物は、いくつもいくつも季節を超えて、いずれ年老いて死んでいくんだ」


 無花果さんの声のトーンが、少し変わった。


 まるで『創作活動』に臨んでいるときのような、落ち着いて静かな声音。これは、祈りの声だ。


「年老いて、忘れていく。どうでもいいように見えて大切なことから順番に。けど、それはどうしようもないことなんだ。ニンゲンの脳みそには限界がある。あくまでも脳みそによって生かされているニンゲンである以上、忘却は不可避なんだよ」


「……無花果さんも、忘れていくんですか?」


 たとえば、『創作活動』のこと。


 たとえば、あの騒がしい事務所のこと。


 たとえば、僕のこと。


 それはとてもかなしいけど、とてもやさしいことのように思えた。


 無花果さんはふっと笑って、


「忘れるとも。けど、たましいには刻み込まれてる。脳みそは忘れ去ったとしても、こころは、本能は覚えているんだ。そんな風にして、忘れられないままのことだってある。たのしいことも、うれしいことも、かなしみも、にくしみも」


「……無花果さんは、忘れられないことってありますか?」


「もちろんさ。けど、すべては過ぎ去ったことだよ。我々は四季をその都度殺して、新しい季節へ進んでいく。そうしなければならないんだよ。『生きていく』とは、そういうことだ」


 無花果さんが通り過ぎてきたこと。季節と共に忘れようとして、けど忘れられなかったこと。


 それはきっと、無花果さんの原動力になっているなにかなのだろう。いのちが覚えていることを頼りに、無花果さんは生きている。どれだけ季節が変わろうとも、未来永劫その記憶によって生かされていく。


 ……いや、『寄る辺』ではない。


 これは『呪い』だ。


 死の安寧を決して許さない、生の呪縛だ。その『呪い』は、終わらせることを徹底的に拒む。どれだけつらくても、どれだけかなしくても、どれだけ苦しくても、続けることを強いる『呪い』。


 そんなものに囚われて、無花果さんは生きているのだ。


 他人の『死』を糧に作り続けて、それでようやくいのちを続けている。


 なんて無様で、なんてかわいそうで、なんて美しい姿なんだろう。


 生の呪縛によって芸術を紡がざるをえない魔女。


 それが、春原無花果というニンゲンだ。


 ……しばらくの間、沈黙が流れた。


 ざ、と大きく風が吹く。


 その風に無花果さんが飛ばされてしまうんじゃないかと心配になって、僕は後ろを歩いていた無花果さんを振り返った。


「……無花果さん?」


 その視線の先に、無花果さんはいなかった。


 代わりに、黒いハイエースが一台、唐突に視界に入ってきた。


 何人かのバラクラバ帽をかぶった人間が、無花果さんの口元をふさいでハイエースに押し込んでいる。なにやらよくわからない言語の一言が聞こえてきた以外は、完全に無言だった。


「…………は!?!?」


 ばさり、と手からコンビニのビニール袋が落ちる。


 意味がわからない。なんなんだこいつらは。無花果さんをどうするつもりなんだ。


 今までごく普通に季節の話をしていた無花果さんが、いきなり消えた。その落差に、僕はパニックに陥った。


 その隙に、スライドドアを閉じたハイエースはその場から走り去ってしまう。


 追いかけなければならない。


 急発進するハイエースに追いつこうと、僕は必死に走った。ハイエースはスピードを上げていく。追いかけても追いかけても追いつかない。


 見る間に息が上がり、足が上がらなくなる。


 ハイエースが遠ざかっていく。


 無花果さんが、遠くに行ってしまう。


「……っ!」


 とうとう足がもつれて、僕はその場に転んでしまった。起き上がるころには、ハイエースの姿はどこにもなくなっていた。


 からだの節々が痛むけど、それより僕は混乱していた。


 どういうことだ?


 なにが起こった?


 今まで当たり前のように存在していた無花果さんが連れ去られて……


「……誘拐……!?」


 ようやくその事実にぶち当たる。


 そうだ、無花果さんはたった今、誘拐されてしまったのだ。僕の目の前で。


 さらわれた無花果さんは、一体どうなる?


 ひどい目に遭わされるに違いない。


 無花果さんが、壊されてしまう。


 そう思った途端、背中に冷たい汗がどっと流れてきた。頭から血の気が引いていく。


 ……そうだ、まずは現場に戻ろう。無花果さんがいたという痕跡を確認したい。


 からだを引きずりながら戻った誘拐現場は、散々な有様だった。


 無花果さんがお出かけ用にと使っていたクマのポシェットは引きちぎられ、キャンディ、クッキー、チョコレートが零れて散乱している。


 あんなにうれしそうに抱えていたチョコバットは無惨に散らばり、踏みにじられている。


 ……たしかに、無花果さんはここで連れ去られたのだ。


 いつも通りに笑っていた無花果さんは、もういない。


 こんなにも簡単に、呆気なく、日常は崩れてしまうものなのか。


 僕は踏みにじられたチョコバットの包みを拾い上げ、ぎゅっと握りしめた。はみ出た安物のチョコレートのにおいがひどく場違いに感じられる。


 無花果さんは、苦痛を与えられているかもしれない。


 最悪、殺されてしまうかもしれない。


 僕が知っている無花果さんが、壊されてしまう。


 そう考えると、心臓がイヤなビートをばくばくと刻み始めた。


 どうすればいい?


 どうすれば、無花果さんを取り戻せる?


 ……そうだ。


 事務所に戻ろう。


 とにかく今は、無花果さんが誘拐されたことを所長たちに知らせなければならない。なにせ保護者だ、この事実を一刻も早く伝えなければ。


 チョコバットの包みといっしょにクマのポシェットを拾い上げ、僕はまた走り出した。


 早く、早く。


 無花果さんが壊されてしまう前に、なんとかしなければ。


 僕にできることは、みんなに今起きたことを知らせることだけだ。どうしようもなく無力だけど、やれることをやるしかない。


 からだのあちこちが痛む。けど、今はそんなの構っていられない。ことは一刻を争う。


 まだ混乱から抜け出せないまま、僕は事務所に向かって息を切らせて必死に走っていくのだった。

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