「さて! そろそろお腹すいてきたねー。すっかり晩御飯時だけど、視聴者のみなさんはなに食べる? 僕はねー、うーん、なににしようかな? じゃあまたアンケート取るよー。カレーは昼食べたから、カレー以外でお願い! あはは、またお酒ー? たしかに晩酌の時間だけどさー、僕下戸なんだよー。おおー、また牛丼出たねー、牛丼いいねー、他になにがあるー?」
つい数時間前にやっていた配信と同じようなことをしゃべる所長を横目に見ながら、僕はトランプタワーを積み上げる無花果さんをただじっと見ていた。
事務所にはかたかたと三笠木さんがキーボードを叩く音が鳴り止まず、所長のおしゃべりとデュオを奏でていた。
ぬ、と奥の『巣』から軍手の小さな手が伸びてくる。その手にはお盆に乗ったお茶があった。
「……ありがとうございます、小鳥さん」
お礼を言ってそのお茶を受け取ると、小さな手はすぐに引っ込んでしまった。この手にも、なにか事情があるのだろう。今は語られない……というか、本体すらも姿を現さないけど。
そんなことを考えながら、あたたかいお茶を飲む。おちつくな……
ほっと息をついてただぼうっとしていると、ふいに無花果さんがすっとんきょうな声を上げた。
「ああっ!」
その声で、完成間近だったトランプタワーがもろくも崩れ去る。
無花果さんはそんなことには構わずに、
「小生のチョコバット! せっかく買ったのに! くっそー、誘拐犯め!」
「あなたはもっと他に気にすべきことがあるはずです」
「なにを言う!? チョコバット以上に大切なことがあるか!?」
「それはあります」
「なんだよ言ってみろよ!」
「正常な思考回路です」
「てめえだって充分アタおかだろうがよお!?」
けんけんと噛み付く無花果さんを、三笠木さんは一瞥もしない。しかし、言葉だけはしっかりと返す。
やっぱり、このふたりにしかわからない空気感というものがあるのだろう。それはたとえ僕が『記録者』だとしても踏み入ってはいけないものだ。ふたりにはふたりだけの関わり方がある。
……今回の件でよくわかったけど、無花果さんを狙うやつはそこらじゅうにたくさんいる。なにをしてでも手に入れたい、それだけの価値が無花果さんにはあるのだ。いつまた危険にさらされるかわからないと肝に銘じておこう。
それにしても、今回はなにも撮れなかったな。とてもそんな場合じゃなかったとはいえ撮れ高ナシ、カメラマンとしては失格だ。
あの三笠木さんのジョン・ウィックばりのアクションシーンは撮りたかったんだけどな……と思うあたり、僕も案外余裕なのかもしれない。
もうすっかり『異常』に毒されてしまっている。
三笠木さんの言うことが本当なら、『いい顔をするように』なってしまったのだ。
つい苦笑いが込み上げてくる。
つい数ヶ月前まで『正常』ぶっていたのがバカみたいだ。
一歩踏み込んでしまえば、くるり、『異常』は『正常』になる。まるでオセロの裏表のように、白と黒は背中合わせなのだ。
それが、この魔女の『庭』のたったひとつの摂理。
ある『魔女』は、ひとの『死』を喰らって『生』の糧とする。
ある『最終兵器』は、『死』を否定しながらも『魔女』の生き様に敬意を表して『任務』を遂行する。
ある『観測者』は、そんな『死』と『生』を見つめ、『庭』に『モンスター』たちを囲う。
ある『籠の鳥』は、……なんなんだろうな?
そして、ある『記録者』はそのすべてを見届ける。
この『庭』にいるからには、そうしたそれぞれの役割からはだれも逃れられない。
その役割を果たすことによってのみ、安寧の『庭』に居場所を作ることを許される。
ここでしか生きられない『モンスター』たちにとって、そんな居場所はなによりもかけがえのないものだ。
……僕みたいな『モンスター』にとっても、もちろんそう。
今回は出番がなかったな、こいつ、と首から下げたカメラを手に取った。ずっしりとした『記録』の重みが手に感じられる。
だったら、せめて。
僕はいつも通りに騒がしい事務所の面々にカメラを向けた。けど、レンズのキャップはつけたまま、ファインダーをのぞくだけだ。
カメラの小さなウィンドウ越しに見えるのは、三笠木さんにつっかかる無花果さんと、それを受け流す三笠木さん、そんなのどこ吹く風で配信を続ける所長と、こっそりこっちに向けてピースサインをする『巣』から伸びた小さな手だ。
……ああ、満ち足りている。
すべてが過不足なく、きっちりとそろっている。
この奇妙なバランスは、いつか崩れてしまうかもしれない。『庭』の平安は、唐突に終わるかもしれない。
けど、僕だけは目を逸らしてはいけない。
このカメラで、この『目』で、すべてを見て、わかって、覚えておかなければならない。
それが僕の義務であり、権利だから。
「……かしゃん」
空のフィルムの代わりにシャッター音を密かに口ずさんで、僕はボタンを押した。
これで、フィルムじゃなく僕のこころに、記憶に日常が刻み込まれた。
決して忘れてはならない、ひどく輝かしい日々のひとかけら。
この記憶を抱きしめて、僕はこれからもこの事務所で生きていくだろう。
「だからてめえはつまんねえんだよ! 悔しかったら気の利いたジョークのひとつでも言ってみろ! そしたら腹抱えて笑ってやんよ!」
「事務の仕事にユーモアは必要ありません」
「うわーうわーうわークソつまんねえ男!」
「はい、じゃあ牛丼で決定ー。コンビニにしようかなー、それとも吉野家? すき家? 松屋? 奮発して温玉二個いっちゃうかなー? あはは、大丈夫大丈夫ー、歳の割に胃腸は丈夫だから特盛いけちゃうよー? えー、なんでロクに運動もしてないのにそんな痩せてるのかってー? それはねー、胃に穴が空くような過酷な仕事を……」
「だーかーらー! だったらてめえがチョコバット買ってこいよ! さもなくばてめえをケツバットだ!」
「あなたはチョコバットとケツバットをかけたつもりですか? そのジョークはとてもつまらないです」
「くきいいいいいいい!! この世でもっともつまんねえ野郎につまんねえって言われたでござる!!」
「ああもう君たちー、ちょっとうるさいよー? 僕にも配信っていう仕事が……」
「そんなしょーもない仕事があってたまるかよ! ファック!」
「えー、いちじくちゃんひどーい! 僕だって一生懸命やってるのにー! ねえねえ、視聴者のみなさん、聞いたー? ちょっと看過できないよねー、今の発言ー」
「所長は今後、春原さんの位置および行動が予測できるような配信は慎むべきです。そうすれば、誘拐の頻度も減るでしょう」
「そうだよ! 小生誘拐されるの今年に入って二回目なんだよ!? だいたい所長のせいで!」
「あははー、ごめんごめんー。けどこれも宣伝活動の一環だからー」
「一番危機感を覚えなくてはならないのは所長です」
「悔しいけど激しく同意!」
なんてことない。
……本当に、なんてことない日常。
けど、きっとこんな『記録』をいとおしく思う日がやってくるだろう。
この楽園は、永遠ではない。パラダイス・ロストは必ず訪れる。
だからこそ、僕のような『記録者』が必要なのだ。
これから先、耐え難い現実が訪れるだろう。
けど、僕だけはすべてを見届けなくてはならない。
ここに『庭』があったのだと、『魔女』が、『最終兵器』が、『観測者』が、『籠の鳥』がいたのだと、覚えておかなければならない。
なにが起ころうとも、すべてを目に焼き付けなければならない。
……さあ、次はなにを撮ろうか?
むしろこれから先の大騒ぎを楽しみにするかのように、僕はそっと微笑むのだった。