いがみ合っているふたりの前で、ちょうど事務所のドアが開いた。
八坂さんの言っていた依頼人が来たようだ。
「……失礼します」
いまだかつてない礼儀正しさで入ってきたのは、きりっとした雰囲気の中年女性だった。凛と張り詰めた気配はあるものの、その表情にはどこか不安と悲しみが滲んでいる。
そして、明らかに疲労している様子だった。顔色は青白く、目の下にはクマが浮いている。頬もげっそりしていた。
女性はもう一度頭を下げると、
「ここは安土探偵事務所ですよね?」
「ええ、そうですよ」
依頼人の相手をするのは僕だ。マトモな対応ができるのは僕しかいないのだから。
珍しく常識という共通言語が通じそうな依頼人に、僕は最大限気遣ってソファをすすめ、小鳥さんが用意してくれたお茶を持ってきた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
ソファに座った女性は、そのお茶に口をつけるでもなく軽く頭を下げた。
……これが、警察と『揉めている』被害者の家族か。
左手薬指に指輪が光っているところを見ると、奥さんだろうか。
ともかく、この奥さんの出方次第で警察が動くかどうかが決まる。
こころなしか、サングラスの奥から八坂さんの刺すような視線を感じた。
ソファに座ってもなお緊張し続ける奥さんに少しでもリラックスしてもらえるように、僕は努めて明るい声で問いかけた。
「ここに来たということは、あなたも死体を探しに?」
我ながら朗らかにするべき質問ではないなとは思いつつも、僕は奥さんの返答を待った。
「……はい。主人の死体探しをお願いしに来ました」
やっぱり、死体の奥さんで間違いないようだ。思い詰めたようにそう言って、奥さんはぽつりぽつりと語り始める。
「主人が、遺書を残して失踪しました。主人は参議院議員をやっておりまして、私はその妻です。ですが、汚職事件の疑惑が持ち上がりまして、連日その対応に追われておりました」
「……なるほど」
「そして先日、とうとうその身の潔白を証明するために、みずからいのちを断つと遺書を残して……」
「……お察しします」
声をかけながら、僕はようやく事件の構造に気づき始めた。
汚職疑惑のある政治家。その政治家が遺書を残していなくなった。この事件には国政まで関わっているのだ。間違いなく新聞の見出しになるような事件だった。
そんな重大事件だというのに、この奥さんはかたくなにその事件性を否定している。そこにはなにかがあるのだろう。
詳しく話を聞く前に、まずは『依頼人』としての手続きを踏んでもらわなければならない。
「失礼ですが、この事務所のシステムはご存知ですか?」
「いえ……システム、と言いますと、料金のことでしょうか……?」
「いいえ。この事務所では死体の捜索については一切の費用をいただいていません。その代わりに、探し出した死体を現代アートの素材として使わせていただきたいんです」
僕の定型句に、さすがの議員の妻もぎょっとしたような顔をした。
「……アート、というと……?」
「この春原が世界的に有名な現代アーティストでして、お代の代わりに素材を提供してもらいたいんです」
僕が指さすと、無花果さんは胸を張って、
「大丈夫さ! きっと見つけ出して、小生がきっちり『作品』にしてみせるよ!」
「……は、はあ……」
「そういうわけで、もしご了承いただけるようでしたら、この依頼をお受けします。どうしますか?」
悪魔の契約を迫る僕に、奥さんは助けを求めるような視線を向けてきた。しかしながら、僕とて魔女の『庭』の一員、『記録者』だ。残念ながら、その求めに応じることはできない。
奥さんはしばらく視線を泳がせたあと、ようやくこころを決めたように僕の目をじっと見つめ、
「……わかりました。それが弔いになるのなら、死体を素材として提供します。葬儀を上げて送り出せるのなら、それで結構です」
かくして、悪魔の甘言にまたひとり、無花果さんの『作品』の素材となる死者が加わった。
ほんの少しだけ、かわいそうだと思ったのはきっと気のせいだ。
「ありがとうございます。それでは、契約書にサインを……」
「ちょい待ちぃや」
契約が成立する直前に、八坂さんから待ったの声が飛んできた。サングラスの奥から奥さんに刺すような視線を向け、
「奥さん、あくまで事件性のないただの自殺や言うんやな?」
「……はい」
何度か繰り返してきたやり取りなのだろう、奥さんはすっかり決意したように返答した。
八坂さんは重々しいため息をつき、
「そうは言うても、ことはそう単純やない。ただのオッサンやったら、遺書を残して失踪しました、はい自殺ですね、で片付くんやけどな。なんせ議員先生や、オマケに贈賄疑惑まで掛けられとる……遺書は捏造されたもんで、政治的な意図で暗殺された可能性も考えなあかん」
「……主人は、」
「ともかく、死体が見つかったら捜査のために警察が押収する。奥さん、あんたの気持ちもわかるけどな、下手したらこの国の政治が揺らぐんや。ちゃんと調べて、犯人を……」
「まったく! つくづくヤボな男だね、八坂のオッサンは!」
ふたりの間に割り込んだのは、三笠木さんのモニターの前に座って絶賛仕事の邪魔をしている無花果さんだった。
「ヤボちゃうわ! これでも仕事しとんのや! 事件性がある以上、死体は司法解剖に回す! イカれた『魔女』の出る幕やないぞ、すっこんどれ!」
青筋を立てて怒鳴る八坂さんに、無花果さんは駄々っ子のように手足をばたつかせながら反抗した。
「ヤダ! 小生は『創作活動』するの!!」
「アホか! 立派な事件やぞこれ!?」
「さあて、それはどうかな!?」
「なんやと!?」
挑発するように笑う無花果さんに八坂さんはまんまと乗せられてしまった。無花果さんは意味深にくすくす笑いながら、
「自殺か他殺か、わからないんだろう? 警察は事件性を疑って他殺にしたがっている、一方遺族は自殺としてこころの整理をつけたい、違うかい?」
ぐぬ、と八坂さんが言葉に詰まった。それにつけ込むように無花果さんは、ぱん!と手を叩いてにんまりする。
「ならば! いっちょ賭けをしようじゃないか! 推理合戦を繰り広げ、先に見つけ出した方が死体を自由にする権利を得る! ぎゃはは、きっと楽しいぞう!」
……完全にゲーム感覚だ。もちろん、『死』をおもちゃにしているわけではない、おもちゃにされているのは他ならぬ八坂さんだ。
「どうだい? 乗るかい? それともしっぽ巻いて降りるかい?」
それで挑発は充分だった。
どん!とテーブルにこぶしを叩きつけた八坂さんは、身を乗り出して無花果さんにガンを飛ばした。
「おう上等や、その勝負乗ったるわワレェ!!」
なにもかもが『魔女』の思う壺だとは知らず、八坂さんは乗せられるがままに賭けに乗ってしまった。
にんまりと、無花果さんの笑みが深まる。
「よし! それでは華麗なる推理合戦といこうじゃないか! さてさて、どちらが先に見つけるかなあ?」
「お前のしょーもない思考トレースなんぞ屁でもないわ! 俺様の論理的推理が必ず勝つ!」
「ちっさいチンピラのオッサンなんかに、自殺者の考えることがわかるかなあ?」
「せやから、身長のことは言うなや! それと、自殺者ちゃうわ! 殺人事件の被害者や!」
喧々諤々、早くもバトルが始まっている。
それをよそ目に、僕は改めて奥さんに向き合って、今度こそ正式な依頼人として迎え入れる。
「それでは、契約書にサインを」
「……はい」
三笠木さんが印刷してくれた契約書を手渡すと、じっくりとそれを読んでから、奥さんははっきりとした筆跡でその名をしたためた。
これで、契約は交わされた。
あとはこの賭けがどうなるかだ。
睨み合っているふたりに目をやり、どうなることやら、と僕は肩をすくめるのだった。