八坂さんが所長と夫婦漫才を繰り広げている間、無花果さんは王様のようにソファにふんぞり返ってお茶を飲んでいた。すっかりくつろいでいる。いつものことながら、結果が待ち遠しくないのだろうか。
「……おい、坊主」
ようやく所長との口喧嘩を切り上げた八坂さんが、疲れきったように息を荒らげながら僕に声をかけてきた。
一体なんの用だろうと振り返ると、八坂さんはサングラスの奥からじっと僕の目を見つめながら、
「……お前、この事務所の『何』なんや?」
その一言で直感した。
ああ、このひとはこの『庭』の抱える業を知っているひとなんだと。
「……ただのアルバイトですよ。雑用と、カメラマンをやってます」
猟犬に内心を嗅ぎ当てられないように当たり障りのない返答をすると、八坂さんは、ふん、と鼻を鳴らして、
「なるほどな……言うたら、『記録係』か」
あっけなく嗅ぎ当てられた。やはりこの刑事、タダモノではないらしい。
そう、僕はこの『庭』における『記録者』だ。すべてをみ見届け、記録し記憶し、忘れないようにするのが僕の使命。
八坂さんは心底うんざりした顔をしながら、ないしょ話のように声を潜めて僕の耳にささやきかけてきた。
「そのカメラで、今までどんだけエグいもん撮ってきたんや? 『共犯者』」
そう、八坂さんは『普通』だ。どうしようもないくらい常識の領域内にいるニンゲンだ。
そんなひとから見れば、この事務所の存在自体がおぞましいものと言えるだろう。なにせ、死体を使って『作品』を作る、そんな死を司る『魔女』のためだけに存在している『庭』だ、許されていい存在ではない。
それでも、僕は八坂さんから目をそらさなかった。
これも、『記録』しておかなければならないからだ。
「……正直、こわいですよ。たまに飲まれそうになります。自分の足元が揺らぐような……そんな感じです」
おずおずと、自分の言葉で語る。
「けどそれ以上に、どうしても惹かれるんです。無花果さんの『作品』には、それだけのちからがある。圧倒されたい、征服されたい、このまま飲み込まれてもいいと思わせるちからが」
「……あんなん、ただの悪趣味や。芸術なんて皮かぶっとるけどな、死者への冒涜に過ぎへん」
「違います」
「違わへん。俺様は絶対に認めへん。許さへん。『魔女』も、その『作品』も、この事務所の存在自体もな」
「……あなた、何様なんですか?」
大上段からの物言いに思わずむっとして言い返すと、八坂さんは僕から目をそらすことなく言い放った。
「俺様は、『神様』や。俺様が秩序であり、法であり、『正義』や」
……思わず、圧倒されてしまった。
畏れ多くも『神様』と来たか。
この八坂大樹という男は、みずからを神だと信じている。自分がすることに間違いなどなく、そこに疑いの余地はなく、絶対的に正しいのだと、そう言っている。
世界のすべては自分の手のひらの上だと、そう宣言しているのだ。
魔女の『庭』に現れた『監視者』。
その目にはきっと、僕のフィルムに写るのと別の真実が映っている。『モンスター』のファインダー越しでは絶対に理解しえない、『普通』の視線でこの事務所を監視しているのだ。
この『庭』において、罪人を暴くその視線はあまりにも暴力的だった。それこそ、無花果さんの『作品』のような決定力を持っている。
観測して、確定させる。
僕は『モンスター』のカメラで、八坂さんは『普通』のまなざしで。
引け越しになった僕の目を、八坂さんの『神様』の視線は逃さなかった。しばらくの間、無言で探るようにぐっと覗き込み、
「……坊主、お前はまだ戻れる。こんな腐れ仕事辞めてまっとうな仕事探しや」
僕の中にわずかに残ったニンゲンの欠片を見つけたらしい八坂さんは、どこかやさしい口振りでそんな忠告をした。
半端者なのを見透かされたような気がして、僕は躍起になって反論する。
「……あなたに、なにがわかるっていうんですか」
「『神様』やからな、全部わかっとるわ」
この男は、見てしまった。
そして、確定させてしまった。
僕の中の弱さを、ニンゲンの名残を、理性の欠片を。
……ぐうの音も出ない。
たしかに、僕は中途半端だ。この『庭』にありながら、この期に及んで『普通』を保とうとしている。完全に堕ちきれていない。まだ『モンスター』になり切れていないのだ。
こっち側にもあっち側にも属せない、宙ぶらりんな立ち位置。どちらにも振り切れない迷いがある。
……そういう意味では、八坂さんの言う通り、僕はまだ戻れるのかもしれない。まだニンゲンでいられるのかもしれない。『普通』の顔をして、『普通』の社会でやっていけるのかもしれない。
けど、そんなの『モンスター』の本性が許してくれない。『普通』の着ぐるみを着ていたって、中身はどうしようもなく『死』に焦がれている『モンスター』だ。
この『庭』で起こるすべてを『記録』したいと願う僕がいる。
そして、ただのニンゲンとして留まろうとしている僕もいる。
そんなどっちつかずの中途半端な存在が、今の僕だ。
……いっそこのまま、この事務所をすっぱり辞めてしまおうか?
使命なんて大それたもの全部捨ててしまって、ごく普通に生きていくか?
まだ戻れる。『神様』はそう言った。
その言葉は、僕の中の迷いをたしかに呼び覚ました。
「おっと! さっすが、無理言ったのに仕事が早いねえ、小鳥ちゃん!」
無花果さんの声にはっと我に返る。
そうだ、今は死体のありかのことだけ考えろ。
……『普通』に戻るかどうか、決めるのは『作品』を見てからだ。
小鳥さんからマップの載った紙切れを受け取ると、無花果さんは意気揚々と目を輝かせ、
「さあ、行こうじゃないかまひろくん! 車を出したまえ、奴隷!」
「……お前、ここの連中に奴隷扱いされとんのか……」
八坂さんから憐憫の視線が向けられた。僕は大きくため息をついて肩を落とし、
「……お願いですから、同情の目で見ないでください……」
「……お互い、苦労しとんねんな……」
その肩をぽんと叩かれると、もうなにも言えなくなってしまう。
「さあさあさあ! 行くよまひろくん! 指人形のようなちっさいオッサンにかかずらっているヒマはないぞ!」
「だれが指人形じゃワレェ!?……ともかく、俺様は容疑者の逮捕状降り次第ワッパかけにいく! 死体捨てた場所も吐かせて、俺様の勝ちや! 今回はお前の『創作活動』もナシ、覚悟しとけ!」
そんな捨て台詞を残すと、八坂さんは派手なスーツの裾を翻して事務所から飛び出していってしまった。
「やれやれ、先に見つけるのはこっちだってのにねえ」
くけけ、と笑う無花果さんに、僕は改めて問いかけた。
「本当に『自殺』……なんですよね?」
「そうとも! 今回もばっちりトレースできたよ!」
「……大丈夫ですか、無花果さん」
ぽつり、心配していることを伝える。
そう、無花果さんは思考をトレースすることによって、自殺者の同じ精神状態になっているのだ。それがどれほど危険なことか、さすがに僕だってわかる。
以前もこういうことがあったけど、無花果さんはかなり精神的に疲弊していた。自殺者に引きずられてしまうのだ。
死者の行方をたどるためには、その『死』のぎりぎりにまで近づかなければならない。深淵の底へと、ロープを垂らして降りていかなければならないのだ。
ロープが切れて落ちてしまったら、おしまい。そんな危うい推理を、この無花果さんは常日頃からしているのだ。
「ああ、気分は最悪だねえ! けど、行こう! 迷わず行けよ、行けばわかるさ!」
猪木の名言を吐きながら、無花果さんは勝手に事務所からつむじ風のように飛び出していった。
……迷わず行けよ、か。
今の僕には土台無理な話なんだけどな。
そんなことを考えながら、僕は軽トラのキーを手に無花果さんに続くのだった。