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№9 ハラキリ

 今回は高速に乗らずに済んだ。


 僕たちは国道を走り、いつしか国会議事堂のある霞ヶ関付近までやって来た。夜とあってひとけもなく、閑散とした官公庁のビルが立ち並んでいる。


 おそらくは、議員の勤め先もこの辺りだろう。


 しかし、無花果さんはビル街を通り越して、郊外にある森林公園へと僕をナビした。


 指示通り走ると、森林公園の大きな駐車場が見えてくる。


 そこで軽トラから降りた僕たちは、そのまま公園の中へと足を踏み入れた。


 どうやらキャンプ地として有名らしく、夜になってあちこちにランタンの明かりがともり、バーベキューの煙が上がっている。ビールを飲んで上機嫌なキャンパーたちを尻目に、僕は一抹の不安を抱いた。


 ……本当に、こんなところに死体があるのか?


 そもそも、『自殺』で正解なのだろうか?


 別に無花果さんの能力を疑っているわけではないけど、今回は八坂さんとも意見が割れている。どちらが正しくてもおかしくない。


 そんな僕の迷いを知ってか知らずか、無花果さんはずんずんと森の奥深くへと入っていった。慌ててそれに続く。


 奥へ行くたびに、テントのあかりの数が少なくなっていった。こんな森の奥にテントを張るのは初心者には厳しいだろう。バーベキューを楽しんでいるようなライトキャンパー勢には、こんなところに用はない。


 道がけもの道になっていく。草が覆い茂り、木々が行く手を遮った。ここまで来ると、もう管理の手もロクに入っていない。よほどの物好きでもない限り、こんな場所には立ち入らない。


 ……しかし、長々歩いてきたけもの道のゆく手に、ぽつりとあかりがともっているのが見えた。


 テントだ。


 ひとり用とおぼしき黄色いテントの中から、明かりが盛れ出している。


 ……ああ、ここに『ある』。


 僕は自分でも気づかないうちに、『死』のにおいを嗅ぎ取っていた。


 わかる。たしかに、ここに死体がある。


 ひとが、死んでいるのだ。


 ダテに今までいくつもの死体を見てきたわけではない。その中で芽生えた新しい感覚が、この場所に死体があると告げていた。


「もうわかっただろう、まひろくん?」


 にひひ、と『魔女』が笑った。今僕は、無花果さんと同じ感覚を共有している。死臭を、ニンゲンの『死』を察知しているのだ。


 奇妙な感覚に誘われるがままに、僕は閉ざされていたテントのジッパーをおもむろに下げていった。


 中から漏れ出す明かりが大きくなるのと同時に、むわ、ととんでもないなまぐささが鼻を突く。


 知っている、これは腐った血の匂いだ。


 腐臭に目をすがめながらテントを開き切ると、そこは正しく血の海だった。


 どす黒く腐って乾いた血が、テント中を染め上げている。血が飛び散っていないところを探す方が難しいくらいだ。


 その中央には、正座をしてがっくりとうなだれている男の死体があった。ここにぶちまけられた血の源は、死体のハラだ。


 長く鋭い柳刃包丁で、死体はみずからの腹を半ばまで引き裂いていた。断面からは腐った腸がはみ出ており、早速ハエがウジを産み付けている。


 ……ハラキリだ。


 この令和の世に、なんという時代錯誤な死に様だろう。


 武士のようなひとだと奥さんは言っていたが、まさか本当に切腹で自殺していたとは思わなかった。


 まだ自殺を決行して時間が経っていないらしいけど、とにかく腐った血の匂いがすごい。むせかえりそうになって息を止める。


 だが、血はきっちりとテントの中だけに収まっていた。テントを開けるまでは血のにおいを感じなかったくらいだ。死体の腐敗もあまり進んでおらず、こんな森の中だというのに虫もたかっていない。


 おそるおそる、僕は死体に近づいてそのうつむいた死に顔を覗き込んだ。


 ……見てしまったのを後悔するくらい、壮絶な表情だった。


 食いしばった歯はくちびるを噛みちぎり、口からも鼻からも大量の血液がこぼれ出している。もうなにも映していない黄色く濁った目は最大限にまで見開かれ、眼球の血管が切れてしまったらしく、ここからも血涙が流れ出していた。


 それだけで、どれほど凄惨な苦痛だったかが想像できる。いや、想像を絶する、と言った方がいいか。


 ハラキリは、その苦痛によってケジメをつける死に方だ。本来ならば介錯人がトドメを刺してラクにしてやるのだが、この死体は最後までラクになることはなかった。


 そうまでしてつけなければならないケジメがあったということだ。


 逆に、疑問に思ってしまう。


 こんなにもひどい死に方をしてまで付けなければならないケジメなんて、果たしてこの地上にあるのだろうか、と。


 自殺当初の議員のこころは、永遠にわからないままだ。


 しかし、議員がどれほど追い詰められていたか、それだけは想像にかたくない。


 義に殉じたのだ。


 身の潔白を証明するためだけに、もっとも苦しみに満ちた死を選んだ男の、残された死体がこれだった。


「ほぅら、あっただろう、死体! うお!? くっさ!?」


 テントに入ってきた無花果さんが、当然のように言い放つ。今回も見事に死者の思考をトレースして、死体を見つけ出してしまった。


 ここに死体があるということは、やはり議員の死は『自殺』で間違いなかったようだ。


 八坂さんが主張していた『他殺』事件は存在しなかった。きっと今ごろ、いもしない犯人を巡って奮闘していることだろう。


「小生たちの勝ちだよ! 死体は我々のものだ! ざまあ!」


「……いや、ひとがひとり死んでるんですから、そんなあからさまな勝利宣言はちょっと……」


「なにを言ってるんだい?」


 不謹慎さを感じた僕に、無花果さんは無垢な子供のような目をして、きょとんと首を傾げて見せた。


「どんな死に様だろうと『死』は『死』だよ? 死体は死体だよ?……君だって、もうずっと前から知っているだろうに?」


 たましいの核心を突かれたような気がして、僕はついぎょっとしてしまった。


 ……そう、今さら知らないフリをするなんて、ムシが良すぎるのだ。


 僕はもう知っている。


 死臭も、腐った血のにおいも色も、濁った眼球も、こわばった四肢も……ニンゲンの『死』の、その現実を。


 知っていて、それでも『記録』することを選んだのだ。


 こういう他人の『死』を素材にしてしかできない、無花果さんのたましいの自己表現を。


 その『作品』の圧倒的な暴力を。


 ……すべてを見たい。


 それは決して『見なければならない』という義務感ではなかった。


 はっきりと、自分の願望で『見届けたい』と思っているのだ。この願いに蓋をしようとしたこと自体が、そもそも甘い考えだった。


 僕は、見たい。


 すべてを見届けて、『記録』したい。


 他人の死体でしか語れない自己表現を、そしてその『作品』の造り手である悲しくも美しい『魔女』無花果さんの行く末を。


 高みか奈落か、それは知らない。


 どちらにせよ、果てまで着いていきたいと、心底思った。


 ……やっぱり、僕は『モンスター』だ。


 たとえニンゲンの名残を残していたとしても、その本質はどうしようもなく怪物のそれだ。


 惑わされるな。


 欲望に忠実になれ。


 ……ケダモノに、なるがいい。


 無花果さんの純粋な問いかけは、僕をまたたく間に『こっち側』に引っ張り戻してしまった。


 揺らいでいたのがバカみたいだ。


 ……お前は、間違いなく『モンスター』だよ、日下部まひろ。


 目の前の『死』が、そう語りかけてくるようだった。


 気づけば、僕は手探りでカメラのレンズキャップを外していた。


 そして、ファインダーを覗き込んで死体に焦点を合わせる。


 かしゃん。


 そのシャッターが落ちる音が、まるで僕を祝福する教会の鐘のように、あるいは呪縛する魔女の歌声のように、頭の中に響いた。


 もう『戻れない』んじゃない。


 もう『戻らない』、『戻りたくない』んだ。


 このけもの道を、どこまでもゆこう。


 そうこころに決めた僕は、ゆっくりとカメラを下ろすのだった。

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