「……おう、遅かったやんけ」
事務所でソファに座りながら声をかけてくる八坂さんは、意外にもかんかんにはなっていなかった。どこかふてくされたように、疲れたようにしている。
「八坂さん、捜査の方は……?」
「証拠不十分で逮捕状は降りんかった。犯人なんておらんかったんやから、そら当然やな」
「……おつかれさまです」
「お前が言うなや、坊主……で、それがホトケさんか」
僕が血まみれになりながら担いできた死体に視線をやり、八坂さんがつぶやく。
「……結局、『自殺』やったわけや」
「はい」
静かに口にするそれは、たしかな『敗北宣言』だった。
八坂さんはふいっとそっぽを向き、
「賭けはお前らの勝ちや、クソッタレ」
悪態をつく八坂さんに、案の定無花果さんがウザ絡みした。
「ふふふ、悔しいかい? 悔しいだろう!」
「うっさいわアホンダラ! 死体はお前らのもんやけどな、俺様はお前らの悪趣味な芸術ごっこまで認めたわけやないで!?」
「……ああ、その負け犬の遠吠え、快感でござる……!」
「負け犬ちゃうわボケェ!」
「では、小生たちは念願の『創作活動』に取り掛かるとするよ!」
「勝手にせえや!!」
それっきり、八坂さんは頑として口を開かなくなった。むすくれてソファに沈んでいる。
くきき、と笑った無花果さんといっしょに、死体を『アトリエ』に運び込む。
ブルーシートを開くと、再びむわ、と腐った血のにおいが放出された。
……さあ、『創作活動』の時間だ。
僕は早速カメラを構え、死体の前でひざまずいて両手を組み、目をつむる無花果さんの横顔を撮影した。
無花果さんは、『創作活動』の前にいつもこうして祈る。それは神に対してなのか、死者に対してなのか、『死』そのものに対してなのか、それは語られたことがない。
しかし、なにか絶対的で神聖なものに祈りを捧げていることはわかる。
しばらくの間静かに瞑目していた無花果さんは、やがて目を開いて呪文をつぶやいた。
「……As I do will, so mote it be.」
いつも通り、『我が意思のままに、そうあれかし』とささやくと、途端にスイッチが切り替わったように、無花果さんは猛然と立ち上がった。
小鳥さんが準備してくれていたものはたくさんある。まずは紋付袴を死体に着付け、しっかりとカミシモの紐を結んだ。
そしてハサミを持ち出すと、じゃきじゃきと死体の髪を乱雑に切り始めた。髪を引っ張り、無理やりにマゲを結い、死体を武士として『装飾』する。
頑丈な針金で死体を固定して仁王立ちにさせると、その手に模造刀を握らせ、天高く掲げさせる。これで仕上げだ。
次に無花果さんは、大量のオブジェを抱えてきた。それは無数の眼球と、手の模型だ。しかし、どれも百均で売っているような安っぽいマガイモノばかりで、とてもホンモノとは思えない。
無花果さんはそれを死体の足元にばらまいた。たちまち死体の足は眼球と手で埋もれてしまう。
死体に群がるように積み上げられたオブジェの次は、札束だった。しかしこれもホンモノではなく、『こども銀行』と印字された偽札だ。
無花果さんは死体のハラキリの傷にその札束を突っ込んだ。いくつもの偽札の札束が赤黒い血にまみれていく。たちまち傷口はみちみちになる。
そして最後に、無花果さんは飛び出したハラワタに白いペンキをぶちまけた。有機溶剤のつんとしたにおいと血なまぐささが混じり合い、吐き気が込み上げてくる。
それでも、僕はシャッターを切る手を止めなかった。鬼気迫る勢いで死体を『装飾』していく無花果さんを、一秒一瞬たりとも逃すまいと、夢中になってフィルムに焼き付けていく。
ただの『モンスター』は、このときばかりはひとりの偉大な『魔女』だった。
「……できたよ。これが今回の私の『作品』だ」
無花果さんの静かなつぶやきで、はっと我に返る。完全に魅せられて夢中になっていた。まだからだとこころが熱を帯び、指先はこわばって震えている。
ファインダーから目を離し、初めて肉眼で『作品』を目の当たりにする。
……まただ。
また、圧倒的な『死』がこころを素手で殴りつけてきた。その衝撃に酔いしれながら、僕は必死にその『作品』を理解しようとする。
……これは、民衆の『正義』に、そしておのれの『正義』に殺された男の物語だ。
チープな眼球と手が群がり、身動きが取れなくなっている。それでもなお、武士として誇りの象徴たる刀を振り上げ、抗った。まるで悪意あるすべてを振り切るように。
腹を切ったのは、やいばではなく世俗にまみれたありもしない札束だ。『こども銀行』のキッチュな印字が赤黒く汚れている。しかし、まぎれもなく凶器はこの偽札だった。
そこから飛び出した腹の内は、どうしようもなく白い。血の赤黒さとのコントラストが目に痛いくらいに、その白さは目を射抜いた。
……そうだ。
この死体は、大衆の悪意ある視線と引きずり下ろそうとする手を振り切って、おのれの『正義』を遂行した。
勝どきを上げる、ひとりの武士だ。
これは、潔く死んだ清廉潔白な男の死に様だ。
この武士は、まとわりつくなにもかもを振り切って自分こそが『正義』だと主張するために、死を選んだ。
……やっぱり、そんな『死』もひとつの有り様でしかなくて、間違っているわけでも正しいわけでもない。『死』はすべてのニンゲンに平等に訪れる。大切なのは、『死に様』で表現される『生き様』だ。
この死体にとっては、これが一番の選択肢であり、生きた証明だったのだろう。
自分は、こうして生ききった。
そういう主張を、無花果さんの『作品』は形にしたのだ。
すべての『死に様』に『生き様』を見出し、意味を与える。『創作活動』は、そのためにあった。
死体は死体でしかなく、『死』は『死』でしかないと、無花果さんは言っていた。
その通りだ。いのちをなくした残骸に、それ以上の意味はありえない。
しかし、裏を返せばそれだけの意味があるということだ。
意味のない『死』なんてない。
意味のない『生』が存在しないのと同様に。
ニンゲンがひとり生きていたという事実は、たとえ何事も成さなくとも、それだけで充分だ。意味があり、歴史があり、理由があり、感情があり、後悔がある。
その一切合切を、『作品』に昇華させる。
他人の『死』を食らって、咀嚼して、飲み込んで、消化して、排泄する。
そうして、無花果さんはやっと自己表現ができるのだ。
……なんてかわいそうで、美しい『魔女』の所業だろう。
すべてを出し尽くした無花果さんは、ぐったりと椅子に座ってうなだれていた。試合直後のボクサーのような有り様も、僕は躊躇することなくカメラに収める。
「……奥さんを、呼んできてくれ。あと、あの刑事も」
かすれた声で告げる無花果さんに、僕はつい言葉を返してしまった。
「……八坂さんも……?」
「……ああ、そうだ。あの刑事にはきちんと事の顛末を『観測』してもらわなければならない」
……『観測』……? 『監視』ではなく?
妙な言葉のチョイスにほんのわずかな違和感を覚えてながらも、僕は改めて『作品』と向き合った。
どうしようもなく『死』だ。
そして、その『死』の持つ意味を引き出し、自分なりにデフォルメして表現するのが無花果さんだった。
それが、『魔女』の芸術の意味だった。
……じっくりと『作品』を撮影するのは後回しだ。
まずは奥さんと八坂さんを呼びに行かないと。
異臭にまとわりつかれたまま、僕はカメラを下ろして『アトリエ』を後にする。
この『作品』の意味を認めるかどうかは、受け取り手にかかっていた。
果たして、ふたりはどんな反応を見せるのだろうか?
今度はそれが気になって、僕は思わず慌てて足をもつれさせるのだった。