「息子さんが独立してからもう三十年近く、ふたりきりで暮らしてるっす。けど十年くらい前からおじいちゃんがちょっと痴呆入り始めて、ほぼ同じ時期くらいにおばあちゃんも足を悪くして車椅子で……けど、おばあちゃん頭ははっきりしてたっす。片方はからだが丈夫で、片方は頭がしっかりしてて……そんな風に、お互い補い合いながら生活してたっす」
比翼連理、とは言うけど、互いを支え合ってささやかに暮らしていた老夫婦。そんな老夫婦はどんな生活をしていたのだろう?
うなずきながら、話の続きをうながす。
「いつもいつも、すっかりボケちゃったおじいちゃんが、朝昼晩とまったく同じ献立のご飯を作って、言うんすよ。『うまいか、トミエ?』って。そうしたらおばあちゃんが『ええ、とってもおいしいですよ、ユウサクさん』って返して、『そうか、よかった』っておじいちゃんが返すっす。そんなやり取りを毎日毎週毎月毎年、休むことなくずっと続けてきたっす」
繰り返し、繰り返し。
朝食、昼食、夕食。
同じ献立で、同じ味で、同じ会話で。
気の遠くなるような繰り返しを、この壊れかけたおじいちゃんは続けてきたのだ。
そして、おばあちゃんはそれに付き合い続けてきた。
春が来て、秋が来て、夏が来て、冬が来てもずっと同じ。
なにも変わらない日常は、ここまで徹底的に繰り返されると、まるで終わらない無限ループのような絶望さえ感じる。
明日も同じ繰り返し。
……だったはずなのに、ある日突然、異変が起こった。
「……けどある日を境に、おばあちゃんがいなくなっちゃったんす。きれいさっぱり、消えちゃったんすよ。おかしいなって自分が気づいたときにはもう、おじいちゃんは『トミエ、メシだぞ』『どこだ、トミエ』『おかしいな』ってまた違った繰り返しをしてて」
日常は変わってしまった。しかし、そんな非日常さえ繰り返してしまえば日常になってしまう。
おばあちゃんの不在さえ日常に織り込んでしまって、おじいちゃんはまた繰り返す。ご飯を作って、おばあちゃんを探して、見つからなくて……
「それで、ひとしきり家の中を探してからひとりでご飯を食べてるっす。いつからおばあちゃんがいなくなったのかははっきりしないっすけど、自分が気づいたときにはもういなくなってたっす。それで血痕を見つけて、もしかしたらって思って、おじいちゃんを連れてここへ相談に来た次第っす」
「……なるほど。だいたいの事情はわかりました」
地獄のように繰り返される日常に、おばあちゃんの失踪という異変が起こった。決定的な非日常だ。それまでの日常は崩れ去った。
そして、おじいちゃんはその異変さえも日常にすべく、また繰り返しているのだ。いなくなったおばあちゃんを探し続け、ご飯を作り続け、ひとりで待ち続ける。
針の飛んだレコードみたいに、ずっと同じように。
「どうですか、無花果さん?」
いっしょに話を聞いていた無花果さんに水を向けてみると、無花果さんはうなりながら、
「よく付き合ってたねえ、おばあちゃん! 小生だったら二日続いたらお脳みそぱぁん!だよ!」
「その辺は夫婦にしかわからないことなんでしょうね」
「それにしたって、これはないよ! 十年間も毎日毎日紋切り型のように繰り返されてみたまえ! 発狂ものだよ!」
無花果さんの言うこともわかる。僕だってたぶん、同じ状況に立たされたら長くもたずに音を上げているだろう。無花果さんみたいなひとだったらなおさらだ。
「事件性はありますか? 故意にしろ過失にしろ、おじいちゃんが殺してしまって死体をどこかに隠したとか」
今回難しいのはそこだ。おじいちゃんは死体を隠した。そして、それを忘れてしまっている。その『死』に、果たしておじいちゃんはどれくらい関わっているのだろうか?
無花果さんはまた、うーん、とうなり、
「今回は、ちょっと現場を見てみたいねえ!」
急に現場検証をしたいと主張し始めた。
……こんなことは初めてだ。今までは安楽椅子探偵よろしく、一切事件には関係のない情報を聞くだけで死体を捨てたニンゲンの思考をトレースして、即座に死体の元におもむいていた。
それが、なぜ今回はわざわざ現場となったおじいちゃんの家に出向こうとしているのだろうか?
「なにか、推理に足りない情報があるんですか?」
戸惑いながらも問いかけると、無花果さんは首を横に振って、
「いやいや、死体の場所を探るだけならば、ここで話を聞くだけで事足りるよ! ただ、今回はこの夫婦の生活をより深く知りたいと思ってね!」
ということは、現場検証は推理のためではなく、そのあとの『創作活動』のためということか。
しかし、死体のバックグラウンドを知りたいだなんて、そういうのも初めてのことじゃないか。今まではただ『死』を切り取って、その部分だけを食べて咀嚼して消化して『作品』として排泄してきた。
だというのに、今回無花果さんはおばあちゃんの『生』に目を向けようとしている。いや、正確にはおじいちゃんの『生』か。
依頼人のために『創作活動』をしようとしている。
おそらくだけど、それはこの繰り返しに終止符を打つためだろう。エンドマークを刻みつつも、これからも続くおじいちゃんの『生』のために、この夫婦の生活を、繰り返しの本質を知ろうとしている。
だとしたら、僕は見届けるだけだ。
おばあちゃんの『死』を超えたおじいちゃんの『生』が、どんなものになるのかを。
無花果さんは両手を組んでばきばきと関節を鳴らしながら、
「いやはや、腕が鳴るねえ! これは非常に興味深いモチーフだよ! 延々と紡がれてきた無限ループが『死』によって途切れ、それでも日常が続いていく! そんな繰り返しがどんなものだったか、小生大変興味津々だねえ!」
いつになくやる気になっている。まるまる太った獲物を見つけたときのケダモノは、こんな顔をしているのだろう。
「それに、一応だけど推理の補強もしたいしねえ!」
ああ、そっちにも必要だったか。さすがの無花果さんも、ことが殺人かもしれないとなると、証拠のひとつやふたつ欲しがるらしい。
十年も繰り返されてきた、儀式のような日常。
そんな日常を、おばあちゃんは一体どんなここちで過ごしていたのだろうか?
壊れていくおじいちゃんを見つめながら、一体なにを思っていたのだろうか?
それは僕も知りたいところだ。
……まだ、殺人の線も消えていないことだし。
「さあ、民生委員ちゃん、案内してくれたまえ! おじいちゃんの家に!」
「ラジャーっす!」
民生委員さんはびしっと敬礼をすると、早速立ち上がった。まだぼうっとしているおじいちゃんは状況を飲み込めず、
「なんじゃ、このひとたち、ワシの家に来るのか?」
「そうっすよーおじいちゃん、トミエさんのことを探すために来てもらうっす!」
「トミエは家にはおらんぞ?」
「いなくても、家のどこかに痕跡が残ってないか調べてもらうんすよ!」
「それでトミエが見つかるなら……」
「よし来た! さあさあ、善は急げだ、早速行こうじゃないかおじいちゃん!」
「なんじゃ、このシスターさんは?」
「探偵さんっすよー」
「はあ、なんとも奇っ怪な……」
……この分だと、また僕が怒鳴られる流れになるかもしれない。それもまた、繰り返しだ。
そうなる前にさっさと事務所を出てしまおう。率先してドアを開けると、僕の後に無花果さんと民生委員さん、おじいちゃんが続いた。
僕にとっても、初めての現場検証だ。事件にならないことに越したことはないけど、もしかしたら証拠写真が必要になるかもしれない。
僕は首から下げた相棒をひとなでして、民生委員さんが案内する方へと歩いていくのだった。