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№5 腐りゆく『生活』

 おじいちゃんの家は、事務所から徒歩で15分ほどのところにあった。あちこちに近代的な家が立ち並ぶ新興住宅街の中で、ぽつんと建っている古びた昭和の木造建築。なんだか時代に取り残された遺物のような家だった。


「ここっすよー」


「うむ! 実に風情のあるお宅だね!」


 そんな言葉を交わしながら、僕たちは玄関の引き戸を開けた。


「……お邪魔します」


 挨拶をしたのは僕だけだった。


 ……玄関はきちんと整理されていて、おじいちゃんのものらしいつっかけが揃えて置いてある。それだけだ。


 靴を脱いで三和土に上がると、それにならって靴を揃える。ついでに、無遠慮に脱ぎ散らかした無花果さんの靴も揃えておく。


「まずは血痕とやらを確認しよう!」


 勝手知ったる他人の家、とばかりにずかずか上がり込んだ無花果さんは、民生委員さんに告げた。


「それなら、ここっす!」


 大きな手で指し示されたのは、板張りの廊下の一角だった。近づいてよく見てみる。


 ……たしかに、手のひら大くらいの赤黒いシミがついていた。引きずった跡や飛び散った跡もない。ただ、シミがついているところの床が少しへこんでいる。


 それだけだった。なにか暴力の痕跡が残っているかもと思っていたんだけど、そんなことはまったくなかった。少なくとも、大量出血したような量ではない。


 ……というか、おばあちゃんは本当に死んでいるのだろうか? この痕跡からはとても死んだとは思えない。まだ生きている可能性だってあるのだ。


 しかし、だとしたらどうして失踪したのかが問題になる。自分の意思なのか、それともだれかに誘拐されたか。どちらにせよ、死体を探している場合ではない。


「……無花果さん」


 呼びかけても、無花果さんはしゃがみこんで血痕を見つめ続けるだけでなにも反応しなかった。


 そしてひとしきり血の跡を観察すると、ぱっと顔を明るくして、


「よし! じゃあ次は家の中を見せてもらおうか!」


「無花果さん、あの血痕でなにかわかったんですか?」


 再度呼びかけると、無花果さんは犬を追い払うような仕草でうるさそうにして、


「まったく、君と来たら雛鳥のようにぴいぴいと! オスメス鑑定すっぞ!」


 ……どうやら、今はまだ『種明かし』をする気はないらしい。なら、僕は黙って着いていくことしかできない。


 民生委員さんに案内されて、家の中もひと通り見せてもらった。


 ボケているというのに、おじいちゃんの家の中に荒れた様子はない。玄関同様きちんと整理整頓されており、私物も服も散らかっていない。どうやらおじいちゃんは生真面目なひとらしかった。


「ふむふむー?」


 無花果さんはいきなりタンスを開け始めた。


「ちょ、ひとんちでなにやってるんですか!」


「いや、小さなメダルがないかと思ってねえ!」


「それやっていいのはドラクエの勇者だけです!」


 止めようとしたけど、無花果さんは構わずにタンスを漁った。入っていたのは洋服だ。奥までかき分けて確認してから、ようやくタンスを閉じる。


「小さなメダルはなかったでござる!」


「あったら逆に驚きですよ……!」


「さて、次はキッチンでも拝見しようか!」


「了解っす!」


 僕たちは民生委員さんに連れられて家の台所までやってきた。やっぱりきれいに整えられており、食卓にはチェックのビニールクロスがかかっている。


 無花果さんは、今度は不躾に冷蔵庫を開いた。もう注意する気も起こらない。小さなメダルでも探してればいいんだ。


「……おっと、これはこれは……見たまえよ、まひろくん!」


「なんですか? そんなところに小さなメダルは……」


 言いかけて、ぎょっとした。冷蔵庫の中を見てしまったからだ。


 そこには、腐っていく途中の食べ物が並んでいた。変色して、生ゴミのようににおっている。虫がたかっていないのは冷蔵庫の中にあるからだろう。


 いくつもの、だし巻きと、ナスの煮びたしと、味噌汁と、白米。冷蔵庫がみちみちになるほどに詰め込まれていたのは、繰り返しの生活を象徴するような、まったく同じ献立の料理だった。


 どれもこれもが同じような出来栄えで、ただ腐敗度だけがそれぞれ違っている。いちばん古いものは真っ黒のかぴかぴになっているが、いちばん新しいものはまだ大丈夫そうだ。


 なにかの標本のようだった。機械的、と呼ぶにはあまりにもそれは狂気じみていた。


 おじいちゃんはなにもかも忘れて、取り憑かれたように毎食同じ料理を、同じように、同じ分量で作り続けているのだ。


 もう食べるひともいない料理を。


 ……息を飲んでその光景を見つめていると、ぼうっとしていたおじいちゃんが不意にしゃきしゃきと動き始めた。


 急に米をとぎ始め、水を測って土鍋を火にかける。冷蔵庫からナスを取り出して、包丁で乱切りにする。味噌汁用の鍋に出汁を入れ、あたため始める。


 ……また始まるのだ、繰り返しが。


 ボケているとは思えないようなきりっとした動作で、だし巻きとナスの煮びたしと味噌汁と白米を用意しようとしている。


 おばあちゃんがいなくなったことも忘れて、ふたり分。


 ……なんだか、かなしくなってきた。正体不明の感慨に胸が締め付けられて、泣きそうになる。


「……この繰り返しなんすよ……」


 民生委員さんも同じ気持ちらしく、かなしそうな顔をしてつぶやいた。


「朝昼晩、まったく同じ献立で、まったく同じことを繰り返して、おじいちゃんはおばあちゃんがどこへ行ったかも覚えてなくて……」


 こんなの、まるで呪縛だ。


 一種の『呪い』だ。


 日常という『呪い』に縛られて、おじいちゃんはただただ繰り返している。なにもかも忘れても、この『呪い』だけは忘れることは許されない。壊れかけたおじいちゃんに残された、たったひとつの現世との繋がりがこれだった。


 そういう『呪い』に縛られたおじいちゃんは、たとえおばあちゃんがいなくなっても繰り返す。日常を保つには、こうすることしかできないのだから。


「……自分、もうこんな繰り返し、見たくないっす……かなしすぎるっすよ、こんなの……」


 涙ぐんだ民生委員さんが口にした。


「だから、おじいちゃんにおばあちゃんの死体を見せて、もうおばあちゃんはいないってことをわからせてあげたいんす……この繰り返しを、終わらせたいんす」


 その気持ちは痛いくらいにわかった。


 こんなの、ずっと見ていたらこっちの気が狂ってしまいそうだ。当人は現実を認識していないけど、すべてを理解している僕たちにとっては、こんなことすべて無駄に思えてしまった。


 無駄だというのに、『呪い』に縛られて続けざるを得ない。続けた先にはなにも残らないというのに、それでも『呪い』は許してくれない。


 いなくなったひとに食事を作り続けるなんて、ひどい『呪い』だ。こうして繰り返して、繰り返して、繰り返して、それでもおじいちゃんにはおばあちゃんがいなくなったことが理解できない。ただ続けることしかできない。


 だったら、おばあちゃんの死体を見せて、もうこんな繰り返しは終わりにしなければならない。


 おばあちゃんはもういないのだと、わかってもらうしかない。


 この『呪い』を解く唯一の方法が、『おばあちゃんの死体を見つけること』なのだ。


 ……絶対に、見つけなくては。


 こんなこと、もう終わりにしなくては行けない。


 そろそろおじいちゃんを解き放ってあげないと。


「わかったよ、民生委員ちゃん! 小生たちに任せておくといい! この『呪い』、必ず終わらせてみせるとも!」


「お願いするっす」


 声をつまらせながら、民生委員さんは無花果さんに頭を下げた。その間もずっと、おじいちゃんは料理をしている。


 ……正直、このおいしそうなにおいは、死臭よりも効くかもしれない。


 そんなことを思いながら、僕は黙々と動くおじいちゃんの背中を見つめるのだった。

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