「今回もよくやってくれたね、『人生一発逆転サヨナラ満塁ホームラン号』!」
「長いです」
ぺし、とボロい軽トラの側面を叩きながら褒める無花果さんに、僕は投げやりにツッコミを入れた。
そして、たどり着いた旅館を見上げて、しばらくの間、間の抜けた顔をする。
……山奥の老舗温泉旅館とは聞いていたけど、これはまさしく『老舗』の格式に相応しい風貌だ。軽トラを停めた門からは砂利敷きの小道が続き、庭には松やなにやらが植えられている。ニシキゴイが泳ぐ池で、かこん、とししおどしの音がした。
「なにをぼけっとしているんだい、まひろくん? 早速仲居さん軍団がお迎えに襲いかかってくるよ!」
物騒な物言いにようやく我に返ると、やんやと着物を着た品のいい中年女性たちがやってくる所だった。あれよあれよという間に僕たちの荷物は持っていかれ、ようこそおいでくださいました、と歓待を受ける。運転手らしき男性にボロの軽トラのキーを渡すのが少し恥ずかしかった。
女将さんに宿に招き入れられると、中は外よりもいかめしい老舗の風格を漂わせていた。掛け軸になんて書いてあるかわからないし、置いてある壺がどこのものかわからないし、活けられている花の名前もわからなかったけど、少なくとも僕のバイト代の数十倍はするものだろう。
案内されて板張りの長い廊下を歩く。途中、枯山水の庭園が見事だった。
そして通された奥の間は、新しい畳の匂いがいっぱいに充満した居心地の良さそうな部屋だった。室内には備え付けの温泉があるらしい。大浴場もあるのでそちらも、とオススメされる。
そして、女将さんはそのまま去っていった。
「…………って、なんで一部屋だけしか取ってないんですか!?」
当然のようにいっしょに置いてある荷物を開けている無花果さんに悲鳴じみた声をかけると、無花果さんはにんまりと笑い、
「繁忙期でね! あいにく予約がいっぱいで、一部屋しか確保できなかったのだよ!」
もっともらしい説明をしてるけど、通り過ぎてきた廊下には他の客らしき人影は見当たらなかった。僕たち以外の宿泊客はいないように見えたのだが。
そこを追求しようとしても、無花果さんはただただにやにや笑うばかりである。
……絶対、わざとだ……!
宣言野球拳のときと同じく、僕はまんまとはめられてしまったわけだ。
しかし、今さらもう一部屋取ってくれなんて言えない。ただでさえ高そうな宿、その宿泊料金が二倍になれば、三笠木さんの眉間にしわがよりそうだ。
「さあ、そんな些末なことを気にしている場合ではないよ! 温泉だよ、温泉! なんという甘美な響きだろう! そして、温泉といえば浴衣だよ! ほら、あそこに置いてある! 温泉を目いっぱい満喫するには浴衣だよ!」
「……はいはい、着替えますよ……」
ホールドアップのここちで浴衣を手に取ると、僕は洗面所へ向かった。
「小生の生着替え、見る?」
「結構です!」
「サービスサービスぅ!」
ぎゃははと笑う無花果さんを残し、僕はぴしゃりと洗面所の扉を閉めた。
浴衣の正しい着方はよくわかっていなかったけど、左前になっていなければいいや。角帯を締めて、僕は洗面所からでてきた。
「ほら、無花果さん。着替えました、よ……」
言葉の最後が溶け消えていく。
無花果さんは、いつも下ろしている髪をアップに結い上げていた。うなじの後れ毛がほんの少し浮いていた。襟元から覗く鎖骨は華奢で、帯で閉められた腰には深いくびれがある。わざとなのかなんなのか、胸元からは谷間が見えていた。
……改めて、美人なんだよなあ、無花果さんって……
いつものシスター姿しか見たことがなかったから、新鮮で余計にそう思うのかもしれない。ひとは服ひとつ変わるだけでこんなにも違って見えるのか。割と真剣に見惚れていた。
しかし、それも束の間だ。
「ぎゃはは! 君、まるっきり『旗本退屈男』じゃないか!」
指をさして大爆笑するのは、やっぱりいつもの無花果さんだった。しゃべるとなにもかもが台無しになった。
しかし、そんないつも通りの無花果さんにほっとする僕もいる。
……けど、絶対に『似合ってる』なんて言ってやるもんか。
僕たちは浴衣姿でしばらく部屋のお茶を飲んだあと、早速温泉につかることにした。部屋にも備え付けの温泉があるらしいけど、せっかくだから大きなお風呂を堪能したい。
男湯女湯ののれんの前で無花果さんとわかれて、脱衣所で浴衣を脱ぐ。やっぱり宿泊客は僕たちしかいないらしく、大浴場も貸切状態だ。
大きな岩が組み合わされた露天風呂に浸かりながら、僕の心中はそう簡単には『極楽極楽』とはいかなかった。
……流されるがままにここまで来てしまったが、いいんだろうか?
今回の目的はあくまでも死体を探すこと、この旅行もなにか関係がある……と、信じたい。
しかし、無花果さんのことだ。死体探しはついでで、近くの温泉に経費で遊びに来たのだと言われても納得してしまう。
無花果さんがここへ来た真意を知りたいのだけど、聞いたところでどうせはぐらかされるだけだろう。
いつもそうだ。核心に迫ろうとすると、するりと逃げてしまう。掴みどころがない。毎日毎日、まるで幽霊の相手をしているようだ。
おそらくは僕をおちょくって遊んでいるだけなのだろうけど、おちょくられている身としてはたまったものではない。
……もしくは、『部外者』である僕にはまだまだ手の内を明かしたくないということだろうか……?
ぶくぶく、乳白色のお湯に浸かって泡を立てているうちに、頭に血が上ってきた。考えすぎだ、このままではのぼせてしまう。
お湯を蹴立てて立ち上がると、僕はだれもいない露天風呂を後にした。
無花果さんがなにを考えているのかわからない。
しかし、僕にはついていくことしかできないのだ。
それが、『記録者』の役割であり、限界でもある。『記録すること』以外のことは許されていない。無闇な詮索も、無作法な言及も、すべては今の僕にはできないことだ。
ただ、ありのままを『記録』する。
今はすべてが語られるそのときを待つことしかできない。
……なんだか、くやしいな。
そんな思いを胸に、僕はからだを拭いて浴衣を着直すと、男湯ののれんをくぐった。
どうやら、無花果さんはまだ温泉に浸かっているようで、わかれた場所にはいなかった。女性だから、きっと支度にも時間がかかるのだろう。
待つこともないかな、と僕は先に部屋へ戻ることにした。
卓に置かれているのは新しい湯のみと急須だ。こういうさりげない気遣いが老舗たるゆえんなのだろう。
ありがたくお茶を飲んで、茶菓子を食べてから、縁側に出てみる。
夕焼けが山の端に沈んでいく中、大きな鳥たちが巣に帰っていくところだった。大空を優雅に舞いながら、茜色にシルエットを落としている鳥たち。
そんな光景に、僕は思わず首から下げていたカメラのファインダーを覗いていた。ぱしゃり、シャッターを切る。何枚か撮って、改めて肉眼で夕焼けを眺める。
……夕焼けって、こんなに血のように赤かったっけ。
都会の喧騒の中で見る夕日とは全然違っていて、空気が澄んでいるのだなと再認識する。こんなに大きな鳥がたくさん飛んでいるところもなかなか見られない。
……ほんの少しだけど、『来てよかった』と思うことができた。
しかし、真っ赤な夕焼けを縁側で眺めながら僕が思うのは、対照的にどす黒く変色した腐った血のことだ。
……こんなところまで来て、すっかり毒されてしまっている。温泉でまで死体のことを考えるとは、僕も相当だな。
赤と、そこから連想される黒。僕たち生者の体内に流れる血と、死者が流す血。
芯まで死臭に取り憑かれた僕は、つい小さく苦笑してしまうのだった。