もう一回温泉に浸かりに行って、ふたりして連れ立って帰ってくると、客室には布団が敷かれていた。
……ふたつの布団は仲良くくっついている。
「……なんで!?」
「いやあ、きっとカップルだと思われたのだろうね!」
無花果さんはひたすらにやにやしている。
絶対にわざとだ……!
せめてもの抵抗で急いで布団をふたつにわけると、僕はどっかりとその上に座り込んだ。
今さら部屋を別にしてくれなんて言い出せない。今夜は無花果さんと同じ部屋で眠るしかない。
まんまと思う壷にはまっている気がするけど、これは仕方のないことなんだ。
自分に言い聞かせるようにぶつくさつぶやいていると、無花果さんが大きくあくびをした。
「小生おなかいっぱいで、温泉でいい気分になって、もう眠いよー!」
「小学生ですか」
「なにせ小生、永遠の小学四年生なのでね! 子供は夜九時までに眠らなければならないのだよ! でないと妖怪『てけれっつのぱ』にさらわれてしまうよ!」
「なんですか、その聞いたこともない面妖な存在は」
「落語の『死神』を知らないとは、君も浅才な男だね! ともかく、小生もう寝るから!」
無花果さんが寝るというのなら、同室の僕も眠らなければならない。明かりはひとつしかないのだから。
しょうがなく布団を頭からひっかぶると、僕は無花果さんに背を向けるように横になった。
「電気消すよー! おやすみ、まひろくん!」
寝る間際まで騒がしいひとだ。ほどなくして部屋から明かりが消え、視界は真っ暗になった。
布団の中で胎児のように丸くなって、できるだけ無花果さんのことを気にせず眠ろうとした。
けど、なかなかそうもいかない。どうしても背後が気になってしまう。無花果さんは寝息を立てないタイプなのか、物音はしなかった。
……もう寝たかな?
けっこう時間が経ったあと、僕は無花果さんはもう眠ったものと踏んで、ようやく安心した。疲れと満腹と温泉でほどよくあたたまったからだで、次第に意識がまどろんでいく。
……もう少しで完全に眠りに落ちる、というころだった。
ずん、となにかが僕のからだの上にのしかかる。
……いや、なにか、じゃない。こんなの、わかりきってるじゃないか。
「……よいしょ、っと!」
「…………なにしてるんですか、無花果さん?」
僕に馬乗りになった無花果さんの表情は暗闇ではうかがえないけど、きっとにやにやしているのだろう。
「なにって……夜這い?」
「なんでそうなるんですか」
「いやね、やっぱり温泉旅行といえば、しっぽりとした一発ですよね?」
「なにを言ってるのかさっぱりなんですけど」
言葉で抵抗するのにも限界があった。無花果さんは有無を言わせぬ勢いで僕を組み敷くと、
「まあまあ、童貞卒業旅行だと思って!」
……さては、これを狙ってたな?
無花果さんは暗闇の向こうで眠っていたのではない。息を潜めて虎視眈々とこの機会を待っていたのだ。
罠にはまった野生動物はこんな気持ちなのだろう。闇の向こうには、大口を開けた『モンスター』が待ち構えている。あとはもう、その胃袋の中に収まるのを待つばかりだ。
「……ちょ、やめてくださいよ……!」
まさか殴るわけにもいかず、なにも見えない中で無花果さんのからだを押しのけようとするけど、謎の腕力で拮抗された。仮にも青少年の腕力に、病弱な芸術家が敵うわけないのに、無花果さんはときどき正体不明の膂力を発揮する。
僕の両手首を布団に縫い止めると、無花果さんはふっと耳元に息を吹き込んでいた。くすくす、笑い声が耳の中に反響する。
「大丈夫だよ、小生に任せておけば、やさしーく筆おろししてあげるから!」
「……言いませんでした? 初めては好きなひとに捧げたい、って」
「記憶にございませんねえ!」
ダメだ、完全にヤる気になっている。もうなにを言っても無駄だろう。
僕にまたがった無花果さんから衣擦れの音がした。ふわ、とボディソープのにおいが香る。それといっしょに、言いようのない甘いにおいがした。
年頃の女のひとから発される、あの香りだ。それくらい、童貞の僕だって知っている。
ミルクのようにやわらかで、切ないにおいだ。
あの浴衣からのぞいていた華奢な鎖骨を思い起こして、僕は生唾を飲み込んだ。暗闇で見えないからこそ、いろいろなことが妄想できてしまう。
無花果さんは今、どんな状態なんだろう?
どんな気持ちで、僕とセックスをしようとしているのだろう?
イヤじゃないのだろうか?
イヤじゃないのなら、いっそ……
「……そう、流れに身を任せてしまえばいいのさ……いっしょに流されて、堕ちていこうよ?」
ささやかれるのは、まるでサキュバスの誘惑だ。どんな男だって、こんな風に誘われたらイチコロで仕留められてしまう。僕だって、例外ではない。
自然と息が上がっていく。もう手首を押さえていなくとも抵抗できない。それでも無花果さんは僕の手をひとまとめにして頭の上に縫い止め、もう一方の手をはだけた浴衣の合わせ目に這わせた。
あたたかな指先がからだの輪郭をなぞり、その感触に肌が粟立つ。く、と息を詰めた喉元に、ぬるいものが滑った。
喉仏を這っているのは、舌だろうか。ぬめぬめと、あの赤い舌が喉元を舐めている。
指先は好きなようにからだを触り、喉でうごめいていた舌はやがて耳元に移った。ぐちぐちと水音を立てながら、舌が鼓膜を蹂躙する。
……頭が、おかしくなりそうだ。
僕はこのまま、バカになってしまうのだろうか?
「そうだよ……難しいことは考えなくていい……気持ちよく、ひとつになっちゃえ」
耳に吹き込まれるささやきは、僕の理性を見る間に溶かしていく。炎にあぶられた氷のように、溶けてしたたり落ちていく。
……エロスだ。
自分はここにいると、無花果さんは僕のからだに刻みつけようとしている。ここに生きているあかしとして、僕を犯そうとしているのだ。
タナトスと対峙するためには、エロスのちからが不可欠になる。食事しかり、セックスしかり。それがないと、僕たちは簡単にタナトスに飲み込まれてしまう。
動物として、無花果さんの行動は正しい。一匹のケダモノとして、生きていくにはこうしなければならないのだ。
だったら、僕もそれにならうべきではないのか……?
無花果さんの『共犯者』として、いっしょに堕ちていく。それもまた、僕の役割のひとつではないのだろうか?
…………いや。
ちょっと待て。
それは違う。
絶対に、間違っている。
「……それじゃあ、始めようか……」
陶然とつぶやいた無花果さんの呼吸が近くなる。僕のくちびるに吐息がかかり、キスをしようとしているのだと知れた。
思い出したのは、あの初対面でのゲロまみれのキスだ。あんな衝撃的な口づけ、僕の人生には存在しなかった。
なにかの契約のような、吐瀉物を口移しするキス。
……そうだ、すべてはあの瞬間に決まっていたはずだ。
僕は『僕』として、無花果さんという『死体装飾家』を『記録』すると決めたはずだ。
それを思い出すと同時に、僕はなにも考えずに無花果さんの脇腹に、容赦のない膝蹴りを叩き込んでいた。
「……っ!?」
突如としてやってきた暴力に、無防備な無花果さんはなすすべもない。ごほごほと咳き込みながら、無花果さんは腹を押さえて僕の上から転がり落ちた。
女のひとに乱暴を働いてしまった……しかし、やむを得ない。状況が状況だけに、ここはひとつ、緊急避難だと言い張らせてもらおう。
苦しげに空気をむさぼる無花果さんに向かって、僕は浴衣の襟元を正しながら息を吸い込み……