明かりをつけると、肩まで浴衣をはだけさせた無花果さんがにやにやと笑っていた。そんないつも通りの表情に、不覚にもほっとしてしまう。
襟を正してから少しお茶を飲み、他愛のない話をしてから、僕たちは再び隣合った布団に潜り込んだ。無花果さんを信頼していないわけじゃないけど、念のため豆電球はつけておく。
「それじゃあ、おやすみなさい、無花果さん」
「うん、おやすみ、まひろくん」
今度こそおとなしく眠らせてくれるようだ。安心した。これで朝まで……
……いざ眠る段になって、目が冴えてきてしまった。どうしてもさっきまでの興奮がつきまとってしまう。
このままでは寝付けない。
「……無花果さん、起きてますか……?」
寝息が聞こえないので、僕はそっと聞いてみた。
すると、しばらくの沈黙の後、観念したような返事があった。
「……起きてるよ! まったくもう、君と来たら、なんだいその修学旅行の夜みたいな話の振り方! だから君は未来永劫童貞なのだよ!」
ぷりぷり怒ったような口調だけど、返事をしてくれたということは話に付き合うつもりはあるらしい。なんだかんだで付き合いのいいひとだ。
僕はこっそり笑って、
「いいじゃないですか。せっかくなんだし、眠るまで少しだけ話しましょうよ」
「……仕方がないなあ!」
もぞ、と隣の布団が動いた。こっちに向いた無花果さんは、薄暗がりの中でないしょ話をするようにささやきかけてくる。豆電球の光を反射した眼球が、きらきらと輝いていた。
「……じゃあ、君はどうしてそのカメラにこだわるんだい?」
「……ああ、カメラの話ですか」
てっきり、無花果さんの『作品』について語るものだと思っていたけど、聞かれたのは僕のカメラの話だった。
無花果さんは呆れたように笑って、
「そうだよ。だって、今どき一眼レフのフィルムカメラなんて時代錯誤じゃないか。それこそ、スマホの方がずっといい絵が撮れるのに」
言われてみれば当然の疑問だった。今までずっと、僕のもうひとりの『相棒』だったこのカメラ。
僕はこいつにこだわり続けていた。このカメラでしか撮れないものがあるからだ。
「……僕は、『光』をフィルムに焼き付ける、っていう行為が好きなんです。ほら、僕たちの目に見えてるのは、実際の光景を脳が補正して、処理されたものじゃないですか」
「……言われてみれば、そうだね」
僕の説明に、納得したような言葉を漏らす無花果さん。気を良くした僕は、下の滑りを良くして話を続けた。
「けど、カメラは違う。ダイレクトに真実を写し出してくれる。ありのままの『光』をフィルムに焼き付けるんです。なんのフィルターもかかっていない、本当の真実の『光』を暴く唯一の手段、それがこのカメラなんです」
話しているうちにだんだん興が乗ってきた。いつしか僕は、なにかに取り憑かれたように語り出していた。
「それに現像するまでどんな風に写っているかわからない。なんだか宝箱を開けるみたいでわくわくするじゃないですか……たしかに、最新のカメラだったらきっと『きれいな』写真が撮れます。こんな時代遅れのポンコツじゃ、絶対に撮れないような写真が」
それはわかっていた。
でも、僕はこのカメラにこだわり続けていた。
それにはちゃんとした理由がある。
一呼吸おいてから、
「……僕が撮りたいのは、そういうのじゃないんです。ただ『きれいな』だけの写真なら、だれにでも撮れますからね。けど、そうじゃない。僕は、ありのままの『光』をフィルムに焼き付けたいんです。汚くてもいい、醜くてもいい、それでもそれが真実なら、きっとこころに訴えかけてくれる……僕は、そういう写真を撮りたいんです。そう信じてるんです。それが、僕だけにしか撮れない『作品』です」
言い切って、初めて自分が早口で熱弁をふるっていたことに気づいた。途端に恥ずかしくなって、口ごもる。
「……すいません、ちょっとしゃべりすぎましたね」
「いや、いいよ」
返ってきた言葉は、まるで『創作活動』と向き合っているときのように透き通ったものだった。
思わず目を丸くしていると、無花果さんは感じ入ったようにしみじみとつぶやく。
「実に美しいじゃないか。道理で君の写真にたましいが宿るわけだ」
「……まあ、まだまだ半人前なんですけどね」
「照れ隠しかい? それでも、誇っていい。君の『作品』は、たしかに真実の『光』を写し出している。君にしか撮れない立派な『作品』だよ……だからこそ、私は君の写真に惚れ込んだんだ」
……いつも思うけど、無花果さんは僕の写真を褒めすぎるところがある。そりゃあうれしいけど、照れくさくてかなわない。僕が付け上がってしまったらどうしてくれるというんだ?
「……そろそろ寝ますね。話聞いてくれて、ありがとうございました」
半ば強引に話を打ち切って、僕は無花果さんに背を向けるように寝転がった。一方的に話しかけておいてずいぶんな態度だとは思ったけど、こうでもしないと顔から火が出そうだった。
すべてはカメラオタクの世迷言だと思ってもらっていい。
それでも、無花果さんは満足げに微笑むのだ。
「……うん、おやすみ、まひろくん。良い夢を」
いつになくおだやかな無花果さんの声が、耳にやさしい。
真夏に素肌でタオルケットにくるまっているようなここちよさを感じて、僕はすぐにまどろんでしまった。うとうととまぶたが下がっていき、やがて……
……夢現の状態で、ふと無花果さんの声が聞こえたような気がした。
遠くで独白するような、そんな声音が……
「……私の話もしようか……」
……え……?……いちじくさんの、はなし……?
「……私の初めての『作品』は、死体探しは……」
……まって、よくきこえない……もっとちゃんと、きかせてほしい、のに……
「……私の、父親だったんだ」
……ああ、これは夢だ。
ありもしないことを、僕は聞いている。
だって、最初の『作品』が父親なんて、そんなこと……あってはいけない。
……だから、たぶん、これは夢だ。
まどろみの縁に立って、僕はそう自分に言い聞かせた。
きっと、明日にはすべて忘れてしまう。夢幻と現実の狭間で見た亡霊のようなものだ。
……けど、もしそれが真実の『光』だとしたら?
……だとしたら、僕はそれをフィルムに焼き付けなければならない。
一点の曇りもない、慈悲も容赦もない真実を。
魔女の『庭』の『記録者』として。
……無花果さんの、『相棒』として。
けど、その真実を受け止めるだけの度量は、まだ僕にはない。カメラの腕も、『モンスター』としても、全然半人前だ。
……無花果さんの最初の『作品』は、父親だった。
父親の死体を探し出し、『作品』として装飾した。
それが、すべての始まりだった。
……こんなの、どうやって受け止めればいいんだ。
だから、未熟な僕は保留しておく。
眠気を理由に、聞かなかったことにしてしまう。
……こんなんじゃ、まだまだ無花果さんの『相棒』には足りないな。
遠くで告解のように言葉を連ねる無花果さんの声がする。
その声も、すべては暗い海に立つ灯台の『光』のようにまたたき、ゆっくりと消えていき……
……そして、僕はそのまま眠りの暗い海に滑り落ちていく。すべてを包み込む、曖昧な忘却の海に。
今はまだ。もう少し、もう少しだけ、待ってほしい。
僕のカメラが真実に追いつけるようになる、その日まで。
たしかに『光』を捕まえられるようになるまで。
胸中でそんな言い訳をしながら、いつしか僕は意識を手放してしまうのだった。