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№15 『おいしいですよ』

「……トミエ……トミエが……」


 弱々しい声にはっとして振り返る。


 そこには、へたりこんで真っ青になっているおじいちゃんの姿があった。


 それはそうだろう。この『作品』の芸術的暴力は、ただの老人には効きすぎる。今、おじいちゃんははだかのこころをこぶしでボコ殴りにされているのだ。


 ……ふっと、おじいちゃんの目から光が消え失せた。


 そして、おじいちゃんはぼんやりとした声音でつぶやく。


「……トミエは、どこだ?」


 まるでからだを丸めて暴力から身を守るように、おじいちゃんは忘却の中に逃げ込んでしまった。


 そうか。やっとわかった。


 おじいちゃんがおばあちゃんの死を忘れていた理由が。


 要するに、それは祈りの延長線上にあったのだ。


 ずっとふたりでいよう。


 ずっとふたりで、この日常を続けていこう。


 そんな祈りを無理やりにでも続けるために、おじいちゃんはおばあちゃんの死を『なかったこと』にしたのだ。


 無意識なのか、意識的になのかはわからない。


 しかし、それはおばあちゃんをうしなってしまったおじいちゃんができる、唯一のこころの防御だったのだ。


 ……しかし、もうそれは許されない。


 無花果さんは『作品』として、おじいちゃんにおばあちゃんの死を突きつけてしまった。


 目をそらすことは、もうできない。


「……おじいちゃん、もうおとぼけはやめにしよう」


 椅子に座ってうなだれたまま、無花果さんがつぶやいた。


「……トミエは、どこだ?」


「逃げたって、おばあちゃんは帰ってこないよ」


「……トミエは、どこだ?」


「なにより、おじいちゃんが一番よくわかっているはずだ」


「……トミエは、どこだ?」


「おばあちゃんは、もういないよ」


「……トミエは、どこだ?」


「おばあちゃんの死体は、おじいちゃんが葬ったんだよ」


「……トミエは、どこだ?」


「本当は、ずっと理解していたんだろう、おばあちゃんが死んでしまったことを」


「……トミエは、どこだ?」


「おじいちゃんがおばあちゃんを語る言葉のすべては、『過去形』だった。それがなによりの証拠だ」


 芸術で、言葉で、こころを殴りつける。こんなものを突きつけられたら、もうおじいちゃんの逃げ場所なんて粉々に破壊されてしまう。


 そして、最後のアッパーカットがようやくおじいちゃんの目を覚ませた。


 茫洋としていたおじいちゃんの目に、光が戻ってくる。


 おじいちゃんはよろけながらも立ち上がり、『作品』に歩み寄った。


 そして、おいしそうにハートを食べているおばあちゃんの死体に向けて、ごく普通に語りかける。


「……うまいか、トミエ?」


 おじいちゃんがずっと聞きたかったこと。


 返事はなくとも、その答えはたしかにそこにあった。


「……そうか、よかった」


 答えを受け取ったおじいちゃんは、いつも通り繰り返す。


 しかし、もうその繰り返しは呪縛ではない。


 祈りへと、昇華されたのだ。


 満面の笑みを浮かべたおじいちゃんの瞳から、涙腺が決壊したかのように涙があふれかえった。次から次へと流れ出す涙を止めようともせず、おじいちゃんはひたすらに、よかった、よかった、と繰り返した。


 繰り返しながらも、その両手が合わされる。おじいちゃんは泣きながら微笑み、手を合わせておばあちゃんに祈りを捧げた。


 ……ここに、祈りは終結した。


 それが祈りであるがゆえに、おじいちゃんはおばあちゃんのことを忘れたフリをしていた。


 それが祈りであるがゆえに、おじいちゃんは繰り返し食事を用意し続けた。


 それが祈りであるがゆえに、おじいちゃんはおばあちゃんのことを探し続けた。


 すべては、祈りがもたらした悲喜劇だった。


「……民生委員ちゃんには、この『作品』は見せない方がいいね」


「……そうですね」


「……事情だけ話して、もう一度葬ってもらおう」


 泣きながら手を合わせ続けるおじいちゃんの姿を見たら、きっと民生委員さんも繰り返しが終わったのだと悟るだろう。だれよりもふたりをそばで見続けてきた民生委員さんが一番望んでいることだ。


 きっと、あの繰り返しが呪いではなく祈りだと知ればよろこんでくれるだろう。


 しかし、そのためにこの『作品』を見せるのは気が引けた。なにせ、おばあちゃんの心臓まで丸はだかにしてしまっているのだ、これを見られるのは『死体装飾家』である無花果さんと、『記録者』である僕、そして祈り続けてきたおじいちゃんだけにしておきたい。


 聡い民生委員さんのことだ、わざわざ見せなくても、説明すればわかってくれるだろう。あとは、所長と三笠木さんに任せておこう。


「……私は、疲れたよ」


 心底疲弊しきった声音で、無花果さんがため息をついた。


「……今回は、ニンゲンの『業』に深く踏み込みすぎた」


 食べること。忘れること。祈ること。


 エロスと、タナトス。


 思えば、あの旅もこの『創作活動』に必要な事だったのだろう。『生きている』ということを、動物として肌で実感するために。


 そんなエロスと二律背反のタナトスのすぐ近くまで降りていったのだ、疲れ切っていても仕方がない。ともすればこころがまっぷたつに割かれてしまうようなことをした。とても危険なことだ。


 それでも、無花果さんは『創作活動』を成し遂げた。『生きて』いながら、『死』を表現してみせた。どちらかに逃げるでもなく、そのど真ん中に立って、たましいの表現をしたのだ。


 無花果さんは、そうすることでしか生きていけない。ひとの『死』でしか自己表現ができない。膨れ上がった自我が破裂してしまう前に、『作品』として排泄しなければならない。


 ……改めて、危険な生き様だ。


 無花果さんがこうして生きていること自体が、奇跡なのかもしれない。


 もうとっくの昔に死んでしまっていたとしてもおかしくないのだ。


 ……ふと、あの夜遠くに聞こえた声を思い出す。


 父親が最初の『作品』だったというのは、もしかしたら本当のことなのかもしれない。


 じゃなきゃ、ニンゲンはこんな風には壊れない。


 こんなにかなしくて美しい『モンスター』は誕生しない。


 初めての『作品』を作り上げたその日、無花果さんは一度死んだのだ。


 そして、そこから再生した。


 しかし、一度死んだいのちには、生贄を捧げ続ける必要がある。


 死者が生きながらえるためには、特別な犠牲が必要なのだ。


 だからこそ、無花果さんは『他人の墓の上で踊り続ける』ことを選んだ。ニンゲンとして、『モンスター』として。


 いのちを繋ぐためには、それしかなかった。


 ……だったら、僕はその生き様を見届けなければならない。


 なにせ、僕は無花果さんの『相棒』なのだから。


 あの夜、誓いの口づけを交わしあった、たましいの片割れなのだから。


 無花果さんにうながされるよりも先に、僕はカメラを構えていた。


 祈り続けるおじいちゃんに向けて、疲れきった無花果さんに向けて、そして『作品』に向けて、思うさまシャッターを切りまくる。


 ここには『記録』すべき『光』がある。


 希望でもない、かといって絶望でもない。


 ただのシンプルな真実がある。


 だとしたら、僕が撮るべき『作品』はここにしかない。


 焼き付ける、焼き付ける、焼き付ける。


 フィルムに、脳に、こころに、記憶に。


 たしかに、こんな時間が、こんな場所が、こんな歴史があったのだと。


 だれに伝えるでもない、いつか忘れ去られて消えてしまうかもしれない。


 ……しかし、これが僕の『作品』だ。


 かしゃん、またもシャッターを切る。


 その音がするたびに、自分という存在が鮮明になっていく。表現とは、本来そういうものだ。その一点においてのみ、僕は無花果さんと同じステージに立てる。


 もっと、自分の奥底までさらけ出したい。


 そんな欲求に突き動かされて、僕はフィルムが尽きるまでシャッターボタンを押し続けるのだった。

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