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閑話

 いつものスマホのメロディで、僕の一日は始まる。


 寝ぼけまなこでアラームを切ると、ベッドの上で大きく伸びをした。しばらく夢のことを思い出したりしてぼんやりする。


 それからようやく起動すると、顔を洗って歯を磨く。鏡にはぼさぼさの頭の僕が、間の抜けた顔をして映っていた。


 基本的に朝はコーヒーを飲むだけだ。インスタントコーヒーを入れてすすると、少し頭が覚醒したような気分になる。カフェインよありがとう。


 そして身支度を整えて仕事に行く準備をすると、だれに行ってきますを言うでもなく、アパートをあとにした。


 僕はひとり暮らしだ。実家は高校卒業と同時に飛び出してきた。『写真家になりたい』と夢を理解してくれたのは、今は亡き兄しかいなかったからだ。


 ぶらぶらと出勤の道のりをたどりながら考える。


 けっこうな額のお給料がもらえるようになったのはココ最近のことで、それまではバイトをしてなんとか食いつないでいた。なかなか二十歳未満を雇ってくれるところは少なく、今まで大抵の業種は経験してきたような気がする。


 それでも、『死体専門の探偵事務所で写真を撮る』なんて仕事はしたことがなかった。


 ……ついでに、いい歳をした大人の女性のお守りも。


「おはようございます」


 事務所のドアを開けて挨拶をすると、さっそく大の大人の無花果さんが飛びついてきた。


「おはよう、まひろくん! 今日も一段とつまらない顔をしているねえ!」


「おはよー、まひろくんー」


「おはようございます」


 みんなが挨拶を返してくれた。いつも僕は定時ギリギリに出勤する。『アルバイトなんだから、そんなに早く来なくていいよー』と所長に言われたからだ。


 まとわりついてくる無花果さんを引き剥がしながら、タイムカードを押す。そこから先は雑用と無花果さんのお守りだ。依頼人が来ない限りは。


 ……まあ、昨日の今日で来ることはないだろうな。


 そうタカをくくっていると、ふとくちびるにやわらかい感触が降ってきた。


「……なにするんですか」


 目を細めてキスをしてきた無花果さんをにらむと、特に悪びれた様子もなくいたずらめいて笑い、


「なにって、おはようのキスだよ! 愛を込めたスキンシップだよ! 『今日も愛してるよ、まひろくん』って!」


「……言いましたよね、僕は無花果さんと……」


「皆まで言うな! 君が童貞を貫き通すってことは小生よーくわかってるよ! けど小生、君のことがだあいすきでねえ! キスくらいは許してくれよ!」


 その答えに、深々とため息をつく。


 ……キスくらいなら、まあ、いっか。


 そんな風に甘っちょろいことを考えた僕がバカだった。


 それからも、無花果さんは逐一べたべたと僕にまとわりついてきた。抱きしめたり、膝の上に寝そべったり、キスしたり、頭をなでたり。


 これも愛情表現のひとつだと思うと、僕も強くは出られない。ただされるがままになって、物理的に邪魔になると引き剥がした。


「まひろくーん、ねえ、まひろくーん!」


「……今度はなんですか」


「またまひろくんからキスしておくれよ! ほら、準備はできてるから!」


 んー、とキス顔が迫ってくる。


 あの時は夜の暗闇だったからできたことで、こんな明るい昼中でキスなんてできたものではない。


 どうしようか悩んでいたところで、がたっ!と大きな音がした。


 驚いて見れば、三笠木さんが椅子を蹴ってデスクから立ち上がっていた。


 ……『最終兵器』の出番ではないはずなのに、このひとがデスクから立ち上がるのは珍しいことだ。


 三笠木さんはメガネの位置を正しながら、表情の読めないまなざしを無花果さんに向けた。


「……春原さん、こちらへ来なさい」


 そして、無花果さんの腕を強引に引く。


 無花果さんはと言えばいつもの険悪なまなざしを三笠木さんに向け、


「んだよ!? やろうってのか!? よっしゃいっちょ小生こぶしにものを言わせてやんよ! 鉄拳がうなるぜ! ぼっこぼこにしてやっから覚悟してろ!」


「それはどうでもいいことです。いいから、こっちへ来なさい」


「スカしやがって! 今日こそそのポンコツ人工無能が詰まったお脳みそぱっかーんしてやる! 真人間に矯正してやんよ!」


 ぎゃあぎゃあとわめく無花果さんを、三笠木さんは僕が普段使っている暗室へと連行した。


 ……なにが起こっているのだろう?


 あの三笠木さんが動くなんて、余程のことだ。なにか無花果さんに問題があったのだろうか?


 思い当たることといえば、僕との過剰なスキンシップくらいだけど……


 自然、暗室から聞こえてくる音に耳を澄ましてしまう。


 ……言い争うような声が聞こえてきた。やっぱり、なにか問題があったのだろう。無花果さんの怒鳴り声と、三笠木さんの声が聞こえてくるけど、内容までは伺い知れない。


 それから、ばしん、ばしん、となにかを叩きつけるような音が聞こえてきた。無花果さんの苦しそうな、押し殺したような悲鳴も聞こえてくる。


 ……真っ先に思いついたのは、『虐待』だった。


 無花果さんが、虐待されている……?


 そりゃあ、三笠木さんと無花果さんは犬猿の仲だ、不倶戴天のカタキ同士だ。


 無花果さんは常々三笠木さんを殴ろうと画策してたけど、『最終兵器』である三笠木さんを暴力でなんとかしようなんて、土台無理な話だ。

 '

 しかし、それは三笠木さんが無花果さんを虐待していい理由にはならない。


 もしも、不当な虐待が行われているのであれば、なんとかしなければ。所長あたりに知らせて……


 そわそわしていると、やがて暗室のドアが開いた。なだれ込むようにして無花果さんが事務所に戻ってくる。


「あーもう、やっぱこいつマジ最悪!!」


「それは私が言うべきことです」


 いつもの無表情で暗室のドアを閉める三笠木さんに、暴力を振るったような形跡はなかった。無花果さんもどこかを怪我している様子はない。


「そんなんだから、てめえはニンゲンの彼女ができねえんだよ! 一生ネットでエロ動画検索してオナってろバーカ!!」


「私には不必要です」


「ついでに言うと友達もいねえんだからな!」


「それも必要ありません」


「はいはい! 人工無能に言ってもしゃあねえですね!」


「あなたこそ友達がいません」


「なにを!?」


 きゃんきゃん言い争いをするふたりは、どこまでもいつも通りだ。なにか暴力が振るわれたとか、そういうことではないらしい。


 そう、どこまでも、いつも通りだった。


 ……そんな『いつも通り』に、ふと違和感を覚える。


 デスクに座って言い争いを続ける三笠をチラリと見やる。


 ……その首筋には、真新しい真っ赤な歯型がついていた。僕もよく知っている、とがった犬歯が特徴的な歯型。


 無花果さんが、三笠木さんの首筋に噛み付いたのだ。


 さらによくよく観察してみると、無花果さんの肌はわずかに上気していた。三笠木さんも、メガネが曇っている。


 ……あ。


 ……ああ、そういうことか。


 僕はそれですべてを悟った。


 ……こんなの、童貞にだってわかる。


 ようやく言い争いをやめた三笠木さんに、僕はつい苦笑いといっしょに告げていた。


「……三笠木さんは、『やさしい』んですね」


 そんな言葉を受けて、三笠木さんは表情ひとつ変えない。ただ、喉仏がぴくりと動いた。


「……私は、やさしくありません」


「そーだよ! こんなやつ、やさしくもなんでもないね! 最低だよ! 最低!」


 ぎゃんぎゃんと無花果さんがわめく。この分だと、また言い争いが始まりそうだ。


 ……やれやれ。


 たしかに、これが『いつも通り』なんだな。


 僕がそれを初めて知っただけで。


 このふたりには、僕とは違うこのふたりなりの繋がり方がある。僕には決してできないやり方で、無花果さんと三笠木さんは繋がっているのだ。


 このふたりもまた、立派な『共犯者』だ。


 ……不思議と、嫉妬のような感情はわいてこなかった。


 それは、僕が僕なりのやり方で、たしかに無花果さんと繋がっているからだ。そこに疑いはないし、ただ三笠木さんは別のやり方で無花果さんに接しているだけの話だった。


 肩をすくめて苦笑いをして、僕は改めて知った『日常』にカメラを向けるのだった。


 ……それ以来、無花果さんからの過剰なスキンシップはなくなった。


 三笠木さんにさぞかしきつい『お灸』を据えられたのだろう。


 それをほんの少しだけ名残惜しく思う僕もまた、この『庭』の『共犯者』なのだった。

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