「なんで!? なんでええええええええ!?」
もう自分がなにをしているのかわからなくなっているのだろう、やっとこぶしの雨を止め、狂乱状態で頭を抱えた牧山蓮華が喚き散らした。
「なんで殴り返さないんだよおおおおおおおお!?!?」
無花果さんはぼこぼこにされていた。それでも、暗く冷たい『死』そのもののようなまなざしは牧山蓮華を見上げていた。
ぷ、と口に溜まった血を吐き出すと、折れた歯もいっしょに飛んでいった。
「……君には……反撃する価値もない……まあ……小生を殺そうってんなら……考えなくもないけどね……けど……君には、そんな度胸……ないだろ……?」
ずたずたになった口でどうにか吐き捨てた言葉は、真っ青になっていた牧山蓮華の顔色を真っ赤に塗り替えた。
これ以上ないくらい、完璧な煽りだ。
頭に血が上った牧山蓮華は、再び狂乱に陥って吠えた。
「殺してやる!! ころしてやるうううううううう!!」
「……やってみろよ、マネッコちゃん……?」
「わたしをばかにするなああああああ!!」
鼻で笑った無花果さんの首に手をかける牧山蓮華。その小さなからだの全重量をもってして、思いっきり無花果さんの首を絞める。
ぎりぎりと気道を押し潰されて、無花果さんの目から生理的な涙がこぼれ落ちた。びくん、びくんとからだが跳ねる。
……それでも、僕は見ているだけだ。
ふうふうと息を荒らげ、牧山蓮華は完全に我を忘れている。このままではものすごく簡単に無花果さんを殺害してしまうだろう。
……それでも、僕は見ているだけだ。
ぐるん、と無花果さんの眼球がひっくり返った。このままでは殺されてしまうというのに、抵抗ひとつしない。
……それでも、僕は見ているだけだ。
すべてを見守ることこそが、僕の役割だから。
物語には一切干渉できない。その代わり、物語のすべてと添い遂げることができる。
春原無花果という物語の、僕はたったひとり存在を許された読者だった。
たとえどんなバッドエンドが待っていようとも、僕にできることはなにもない。決まっている結末を覆すことは、読者にはできない。
そんなすべての『不可能』の先に、『記録者』としての役割を果たすことができる。
無花果さん、すべてはあなたの意のままに。
僕が『相棒』として尽くせる忠義は、それだけだ。
いよいよ無花果さんの意識が途絶えようとした、そのときだった。
唐突に現れた人影が、どん、と横あいから牧山蓮華にぶつかる。小さなからだは無花果さんの上からやっと転がり落ちた。
「…………え?」
半笑いの牧山蓮華が、自分の腹を見下ろす。
そこには、血にまみれた出刃包丁の鈍色が光っていた。
刺されたのだ。
へたりこんで自分の腹に指を滑らせ、次々湧いて出てくる血液の赤を確認するように目の前にかざす牧山蓮華。
「よっしゃーワンキル!」
こんな状況を作り上げた闖入者は、場違いな言葉で快哉を叫んだ。返り血にまみれてガッツポーズをしているのは、無精ひげを生やしたスウェット姿の太った中年男性だ。どうやら風呂に入っていないらしく、におう。
「祭に間に合ったぜ!」
そして、スマホで血の海の中にいる牧山蓮華を撮影した。ぱしゃぱしゃと気の抜けたシャッター音が連続して響く。
……言葉から読み取るに、この男はあの配信の視聴者のひとりなのだろう。無用な突っ込みはやめろと言われたにもかかわらず、場所を特定して包丁を手に走ってきたのだ。
ちょっとしたFPSゲームに参加するような覚悟で、ひとを傷つけた。男にとっては、これはネットと地続きの仮想現実なのだ。なんの責任も負わなくていい、匿名のいごこちのいい空間。ひとを刺すのだって、ワンクリックと同じお手軽さだ。
……配信で協力を募ることの危険性。
それが、ここへ来て爆発した。
五万人もいるのだから、中にはこういう輩がいてもおかしくはない。なにせ匿名だ、だれも男のことを知らないし、男だって包丁で刺した牧山蓮華のことをロクに知らないだろう。
面白いゲームの延長線上。男にとって、ネット上の祭に参加することは、それくらいの認識なのだ。
あらかた写真を撮り終えると、男は血にまみれたまま咳き込んでいる無花果さんのそばにしゃがみ込んだ。
ぼろぼろの状態で死にかけている無花果さんに向かってにやにやと笑い、
「やべー、生イチジクだ!」
またスマホで写真を撮り始める。撮影許可などした覚えはないのに。
「あとでサインくれよ!」
「……ごほっ、ごほっ……考えておくよ……」
どこまでも現実離れした男の言葉をいなしながら、無花果さんはよろけながらも立ち上がった。あちこちの骨が折れているというのに、意外にも足取りはしっかりとしている。
ぱんぱんに顔を腫らした無花果さんは、血の海で茫然自失状態となっている牧山蓮華に歩み寄る。
大量出血して真っ青になりながら、牧山蓮華は苦痛にめそめそと涙をこぼしていた。
「……いたい……いたいよう……なんで、なんで……!?!?」
腹を刺されたのだから痛いのは当たり前だ。先程まで無花果さんをぼこぼこに殴っていたというのに、牧山蓮華は自分自身に降りかかる苦痛にはとてつもなく敏感だった。
いきなり現れた見知らぬ第三者に致命傷を負わされて、いまだに現状を理解していないようだ。なんで、どうして、と繰り返しながら、牧山蓮華は泣き濡れていた。
「……よかったじゃないか……見つけてもらえて……」
無花果さんが吐き捨てるように告げる。
牧山蓮華は駄々っ子のように首を横に振った。
「……ちがう、こんなの……わたしは、わ、たし、は……!」
まだ『私は特別だ』とでも吠えるのだろうか。
しかし、牧山蓮華にそこまで突き抜けた狂気はなかった。
「いたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたい!! おねがいしますたすけてくださいたすけてたすけてたすけて!!」
死ぬのはこわくないと豪語していた牧山蓮華は、今まさに『死』の淵に立たされ、そこから必死になって逃げ出そうとしていた。
……つくづく、滑稽だ。
身勝手な承認欲求に振り回されてここまで来てしまったことを、まだ理解できないらしい。
ただ苦痛に身を縮こまらせ、なんでどうしてと繰り返す。
自分にはもっとすばらしいエンディングが用意されているという思い上がりを捨てきれない。
そんな牧山蓮華を見下ろして、無花果さんはまた困ったような苦笑を向けた。
「……芸術のために、死ねるんだ……本望だろう……?」
「……そんな……!……こんなの……ちがう、わたしは……!」
「……言っておくけど、君の死体は『作品』には、しないからね……」
もはや、素材としても見られていない。『死』を軽んじるものの『死』には、なにも見出すものはないからだ。
「……たすけて……たすけて……」
だんだんと、牧山蓮華の声がかすれていく。そして、その意識はふっつりと途切れてしまった。
血の海にばったりと倒れ伏し、『承認欲求のバケモノ』のエンディングは至極後味の悪いものとなった。
……これなら、ただのバッドエンドの方がどれほどマシか。
牧山蓮華は、最後の最後まで醜悪だった。
すべてを見届けた僕は、改めて脳裏にその醜さを焼き付ける。焼き付けて、忘れないようにする。
男が呑気にスマホのシャッターを切る音ばかりが、静寂に痛々しい。きっと『きれいな』写真を撮っているのだろう。
……僕は、そんなもの撮らないけど。
その代わり、ただ動かなくなった牧山蓮華の小さなからだを見下ろす無花果さんのぼろぼろになった横顔を、しっかりと頭のフィルムに焼き付けるのだった。