無花果さんはまだテレビにかじりついている。どうやら『しょっぱいスープ』特集らしく、次の演目が始まっていた。
掃除機をかけていると、事務所の扉が控えめに開く。
「……あのー」
うるさいので掃除機のスイッチを切って客の姿を認める。サングラスに帽子の、小太りの中年男性だった。どこかおどおどきょろきょろしながら事務所を眺めている。
…………あれ、なんか既視感があるような…………?
「なんだいお客かい!? 今いいところなんだから、後にしてくれたまえ!」
客の姿を見ようともせず、テレビに視線を向けたままの無花果さんが、犬を追い払うようにしっしっと手を振った。お客に対してなんとも不躾な対応だ。
「そう言わんとってください、依頼しに来たんです」
「依頼人!? 今忙しいのだよ! 立て込んでいるのだよ! 今日は開店休業だよ! 帰った帰った!」
「そ、そう言わんと……名前だけでも覚えて帰ってくれませんかねー?」
「なんだいその劇場の芸人みたいな言い回しは!」
「はい、劇場の芸人です」
「…………え?」
無花果さんがようやく視線を向けると、中年男性は被っていた帽子とサングラスを取って素顔をさらした。
……呼吸が止まる。
それは無花果さんも同じだった。
なにせ、そこには今まさにテレビで漫才をやっているボケ担当のニンゲンが立っていたからだ。
そう、依頼人は漫才コンビ、『しょっぱいスープ』の金沢ボンドそのひとだった。
僕と無花果さんは見事にシンクロした動きで、テレビとボケ担当本人を交互に見比べる。たしかにホンモノだ。
『えええええええええええ!?!?』
最終的にはふたりでボケ担当を指さして驚きの声を上げる。
一体全体、どうしてここに『しょっぱいスープ』がいるのだろうか。依頼をしに来たと言っていたけど、まさかこんな事務所に有名お笑い芸人が来るとは思ってもみなかった。青天の霹靂とはこのことだ。
「『しょっぱいスープ』のボケのひと!!」
早速無花果さんが大騒ぎしている。ボケ担当は頭をかきながら気まずそうに、
「金沢ボンドですー、金沢テープの相方の。ふたりとも粘着質なんで」
「それは重々承知しているとも! ああ、ものすごく知っているよ! だって今しがた見てたんだもの!」
「ありがとうございますー」
上方漫才特有の関西弁で頭を下げるボケ担当。
「おやおや、『しょっぱいスープ』が来たよー。ここもずいぶんと有名になったねー。これも僕の宣伝の効果かなー?」
電子タバコを吸いながら配信をしていた所長が呑気な声でカメラをボケ担当に向けた。相変わらず、撮影許可は取らない方針らしい。
「ええ、先日の『祭』、実は僕も参加してまして……それで、ここのこと知ったんですー」
先日の『祭』とは、『模倣犯』牧山蓮華をめぐる一連のネットの騒動のことだろう。その影響は思わぬところに波及していた。
「視聴者のみなさまー、有名お笑い芸人が依頼人としてやってきたよー。これは世紀の瞬間だよー」
ご機嫌に語る所長の言葉を遮るように、無花果さんがボケ担当に、ずいっと迫った。
「すごいすごい! 意外とテレビで見るより痩せてる!」
「あー、テレビはねー、あれ余計デブに映りますからねー」
「サインください! あと握手と、写真と、あとはあとは……!」
完全に発奮している無花果さんは、血まなこになってサインをする白紙を探した。
そして、最終的にはパソコンに向かっていた三笠木さんのワイシャツを剥ぎ取ろうとした。
「やめてください、私のシャツは色紙ではありません」
「つべこべ言うんじゃねえよ! てめえのスカしたワイシャツほど白いもんはこの事務所にはねえんだよ!」
そりゃあ、一番に目につく白いものと言えば三笠木さんのシャツだけど、白けりゃいいってものでもない。
服を脱がせようとする無花果さんを、三笠木さんは適当にあしらっていた。
「あなたに廃棄する予定のカレンダーの裏を与えます。やめてください」
「なんだよケチ! 毛チンポポ!」
「あたかもタンポポの綿毛のように言うのもやめてください」
「あー、サインでしたらなんぼでもしますんでー」
「握手もかい!? 写真もかい!?」
「はい、好きなだけどうぞー」
「さっすが大物芸人、太っ腹のファンサだね!」
「芸人はお客さん第一やないといかんのでー」
なるほど、一流のお笑い芸人となると、それくらいの信条がないとやっていられないか。
……僕ももらおうかな、サイン。
今しがたしっかり笑わせてもらったし、記念にもらっておこうか。自分がこんなに浮ついたニンゲンだとは思わなかった。
「やってよ、DANZEN!ふたりは粘着質!」
「……あれは相方おらんとできんギャグなんで……」
そうだ、なぜ漫才『コンビ』のボケ担当だけがここへ来ているんだ?
今さらながら、当たり前のことに気がついた。
相方を連れずにひとりでやって来たお笑い芸人。しかも、依頼をしに来たと言う。僕たちに持ってくる『依頼』なんて、『死体を探すこと』以外にはない。
不在の相方に、死体を探しに来たお笑い芸人。
……なんだか、イヤな予感がした。
「じゃあ小生がツッコミ役するから! 振りは完コピしてるから大丈夫だよ! やろうよ、DANZEN!ふたりは粘着質! 小生も大概粘着質だからさ!」
「いやー、相方やないと微妙な呼吸合わんのでちょっと……」
「なるほど、芸のひとつにも一瞬の呼吸を求める! さすがはプロフェッショナルだね! わかったよ、今回は小生が引きさがろう!」
「ご理解いただいてありがとうございますー」
緊張が解けた様子で、ボケ担当はようやく笑顔を見せた。なんともひとなつっこい笑みは、テレビ画面越しで見るよりもずっと魅力的だ。
しかし、どこか憂いを含んだ笑い方をしていた。
……その理由は、今回探す死体に関係しているのだろう。
「とりあえず、座ってお話を聞かせてください」
「はい、ありがとうございますー」
掃除機を片付けた僕は、ボケ担当をソファへと案内した。無花果さんはカレンダーの裏紙を持って、きらきらした目でタイミングをうかがっている。
……さて、今回はどんな死体を探す依頼だろうか。
そして、今回はどんな『作品』が見られるのだろうか。
有名芸能人を前にしても、僕の意識はそっちに引っ張られてしまう。
有名人と言えば、無花果さんだって世界的に有名なアーティストだ。今さら有名人にビビることはない。
早くあのこころを素手で殴りつけるような『作品』と向き合いたい。向き合って、しっかりとフィルムに焼き付けたい。脳に刻み込みたい。
たちまちそのことで頭がいっぱいになってしまう。
しかし、そのためには死体を見つける必要がある。そしてそのためにはこのボケ担当の話を聞かなければならない。
事務所で唯一マトモな会話ができる僕が窓口になるのだ。この依頼人はだれの死体を探してほしいのか。死体になった経緯はどういうものなのか。
事務所の奥の『巣』から、お茶を載せたお盆が差し出された。相変わらず手だけだけど、小鳥さんのいれてくれたお茶には依頼人のこころをほぐす作用がある。
湯呑みを受け取ってボケ担当の前に置くと、僕は改めて背筋を正した。
「それでは、詳しい話を聞かせてください」
果たして、『しょっぱいスープ』のボケ担当が持ってきたのはどんな依頼なのだろう。なにせ有名芸能人がお忍びでやって来るような依頼だ、絶対におおやけにはできない重大な案件なのだろう。
……イヤな予感が外れてくれればいいんだけど。
無駄な抵抗だとはわかっていても、僕はそう願わずにはいられないのだった。