無花果さんはまたなにか書きつけると、それを事務所の奥にある『巣』から伸びる手に渡して戻ってきた。
それから、ソファにどっかりと腰を下ろし、すっかりリラックスしてしまう。こうなってしまっては、もう無花果さんから聞くことはなにもない。
知らん顔でのんびりとお茶をすする無花果さんを置いて、僕はボケ担当に話しかけた。
「……さっきの、『笑い』の金メダルの話、カッコよかったです」
そう言うと、ボケ担当は途端に決まり悪そうに頭をかいた。
「いややわー、恥ずかし……カッコつけてもうて」
「そんなことないです。本気でお笑いやってるんだって伝わってきましたから」
「そらどうも」
ははっ、と苦笑してから、ボケ担当はぽつりぽつりと言葉を続けた。
「ほんと言うと、お笑いなんてそんな高尚なもんやないんです。ただ、みんなに笑っとってほしいだけなんですよ。しあわせってこういうことなんやでーって、すごい『普通』のことなんやでーって、知ってもらいたくて」
当たり前にあるしあわせに、ニンゲンはなかなか気づくことができない。いつも『自分は不幸だ』と思っていたい生き物なのだから。
そんな『不幸自慢』の世の中に、『しょっぱいスープ』は小さな火を灯した。
お前らのふしあわせなんて大したことない、と笑い飛ばしてしまった。
そして、釣られて笑い出したひとたちの首に、勝者の金メダルをかけて回ったのだ。
そんなにしょげなくていい、笑えただけで一等賞だ、と。
「ほら、世の中死にたい人とかおるやないですか。そういうひとらでも、少しの間笑えるしあわせっちゅうの、味わってほしいなって。しあわせで笑わんくていい、笑ってしあわせになればええんやって。そんなん逆でもええんです」
しあわせで笑うことは難しい。
しかし、笑ってしあわせを感じることは簡単だ。
そんな簡単なことを、だれもかれもが忘れてしまっている。目の前にある不幸に目を取られすぎて、笑うことを忘れてしまっている。
ほんの少しでいい、笑ってみればいいのだ。
そうしたら、きっとこころが軽くなる。少しだけ不幸を忘れて、そうやってできた隙間にいい考えが思い浮かぶかもしれない。『笑い』には、ひとを前向きにするちからがある。
ふたりは、世の中に満ちあふれるふしあわせに真っ向から対峙して、『笑い』のちからを『表現』して見せたのだ。
こころの底から『笑い』のちからを信じて、信じて、信じ抜いて、懸命にひとを笑わせてきた。
それは、確実に価値のある『表現』だ。
……しかし、当の本人たちのしあわせはどうだろう。
笑わせてきたコンビの片割れはどこかで野垂れ死に、もう片方は半身をもがれた痛みに苦しんでいる。
しあわせを振りまいてきた本人たちが笑えなくなっているとしたら、それはひどくかなしいことだ。
笑えないピエロほど痛々しいものはない。
「……相方は、ベッドで死ぬ間際までネタ帳書いとったんです。自分が死ぬ言うのに、最後の最後までお客さんのことばっかり考えて、アホかと。自分もうすぐ死ぬんやでと」
笑えないピエロにならないように、ツッコミ担当は必死にあがき続けた。お笑い芸人として死のうと、最後までひとを笑わせるために生きていた。
無意味な『生』などない。
しかし、もしその『生』に、そしてその『死』に意味を見出すのなら、ツッコミ担当のそれはきっと『笑い』でしかなかった。
笑って笑って、そして劇場で死のうとしたのだ。
お笑い芸人としての本懐を遂げようと、最後までもがき続けた。
いっそ意地のようなものさえ感じてしまう。誇りやプライド、信念、と言ってもいいのかもしれない。
「それやのに、相方は笑わそうとした。せやけど、相方自身はしあわせやったんか?と思ってまいます。こころざしなかばで病気に倒れて、最後はどこか知らんところで迎えて、無念やったんやないかって。笑って死ねんで、苦しみ悶えて死んだんやないかって……やから、少しこわいんです、相方の死体と対面するの。笑えん死に顔しとんちゃうかって」
順調に死ねなかった『なにか』があった以上、笑って死ねるとは考えにくい。死ぬほどのアクシデントに遭って、それでも笑っていられるニンゲンはそういない。
ボケ担当の気持ちもわかる。ひとを笑わせてきた『表現者』の末路がこれだと突きつけられるのは、ともすれば世の中に絶望してしまいかねないことだ。
自分たちの『笑い』は所詮この程度のものだったと、その死に顔が語っていたらどうなる?
ピエロ当人が苦痛の表情で最期を迎えていたら、片割れはどんな顔をすればいい?
……考えただけでこころが苦しくなった。
笑えるしあわせを最期まで貫けなかったのだ、きっとツッコミ担当は無念のうちに死んだのだろう。
だれにも金メダルをかけてもらえないまま、死んだのだ。
ボケ担当は祈るように両手を組んでうなだれ、重いため息をついた。
「……悔しいです。なによりも僕ら自身が笑っとらんとしゃあないのに、最期がこれやなんて。あんまりやないですか。お笑いやっとった結末が、笑えん死に顔やなんて。所詮、最期に立たされたら、『笑い』のちからなんて軽く消えてまうもんやって思い知らされるのがこわいんです」
よくわかる。
圧倒的な『死』という現実を前にすれば、ほとんどの『表現』は無力化する。『死』にはそれだけのインパクトがあると、いやというほど知っている。
……けど、だからこそ。
無花果さんはそんな『死』そのものを『表現』するのだ。なにもかもを帳消しにしてしまうインパクトを逆手に取って、まるで神様をあざむくように。
ひとの『死』でもってしか『生』を歌うことができない。
因果なものだけど、そう考えるととても順当なやり方なのかもしれない。
お笑い芸人『しょっぱいスープ』は、『笑い』のちからを信じてそれを『表現』した。
一方で、無花果さんは『死』の暴力に意味を与え、『表現』する。
方向性は違えど、両者とも『表現者』であることに違いはない。
自分の『作品』がもたらしたものを尊び、信じ、誇り、次の『作品』に繋げていく。
本来、『表現者』とはそういうものなのだ。
ただ、このふたりはいわば陽の『表現者』だ。『生』を、しあわせを祈り、ひとびとを笑顔にする。だれもを笑顔にする、太陽のような『表現』だ。
それに対して、無花果さんは陰の『表現者』だった。『死』を想い、その暴力に意味を与え、突きつける。笑顔とは真逆の場所にある『作品』は、ときとしてひとを狂わせてしまう。
……それでも、無花果さんはあがく。苦しくても作り続ける。必死に喰らい、咀嚼し、嚥下し、消化し、排泄する。そうして、『死』を『作品』として昇華するのだ。
陽であれ陰であれ、そこに貴賎などない。
なにかのちからを信じて、自分なりに解釈して、『作品』とする。そしてその『作品』は、たしかにひとを前に進ませることができる。
たとえ『祈り』でも『呪い』でも、ひとのこころを打って『生』を目の前に差し出す。
お笑い芸人も、『死体装飾家』も、根っこの部分では同じ『表現者』だ。伝えたいことを『作品』にして、ひとの感情を揺さぶる。揺さぶって、惹き付けて、生かす。
……だとしたら、僕はどうなんだ?
同じ『表現者』として、なにかしらのちからに意味を与えることはできるのか?
写真という手法で、信じるちからをだれかに届けることはできるのだろうか?
……今のところ、そう言い切る自信はない。
けど、僕が写し出した真実の『光』が、明日へ続く道を照らしていたらいいな、とは思う。
そうなりたい、そのための努力は怠ってはいけないとおのれを戒める。
僕だって『表現者』だ。
だから、誇る。ちからを信じる。
絶対に『自分なんて』と思ってはいけないのだ。
それは『表現』することに対しての冒涜でしかない。
驕ってはいけないけど、卑下してもいけない。
……むずかしいな、『表現』っていうのは。
そう思うと、改めて無花果さんや『しょっぱいスープ』のふたりはすごい存在なのだと実感した。
僕も、最短距離でその境地に追いつきたい。
そう願って、僕は話を終えたボケ担当に、ぺこりと頭を下げるのだった。