いつものように『調律』が終わり、私は避妊具の口を縛って一旦ポケットに入れた。
もう真夏の気温になった暗室に冷房はない。私たちは熱中症手前の状態で事後の余韻らしきものに浸っていた。
春原さんは顔を真っ赤にして息を荒らげ、肌にはしっとりと汗を浮かべている。作業台から起き上がると、よろけながらそれだけ脱いでいた下着を履き直す。
私も下着とスラックスを引き上げようとすると、ふと春原さんが私の腹を指さしてきた。
「……前から思ってたんだけどさあ……」
その指の先にはへそがある。正確には、へそに付けられた無骨なピアスだ。
「……なんで、へそピなの?」
春原さんの疑問ももっともだ。だれも私のようなニンゲンがへそにピアスなど開けているとは思うまい。
……私は、しばし過去の記憶をたどった。
このピアスは、かつてフランス外人部隊に所属していたときに開けたものだ。
当時、隊内では首ではなくへそにピアスを開けて、そこにドッグタグをつけることが流行していた。
ただの子供だった私は、すぐさまその流行に乗ってへそに穴を開け、得意げにドッグタグをぶら下げていた。
思えば幼稚すぎた。なにも考えない、未成熟な少年だった。
しかし、今よりと違って、確実にニンゲンだった。
所属していた中隊の中で、私は『ニャール』という愛称で呼ばれていた。
クニハルが訛ってクニアルに、それが訛ってクニャールに、さらに訛ってニャール、という経緯だ。
その呼称を一番気に入っていたのは、私ではなく、中隊を率いていた大尉だった。
大尉はアイスランド出身の巨漢の中年で、年中シングルモルトを飲んでいた。よく笑うひとで、しかしひどいアイスランド訛りのフランス語のせいでたまになにを言っているかわからなくなるときがあった。
「ニャール、おめさはアイスランド神話って知ってっか?」
「はい、大尉殿! ニャールはアイスランド神話における、法律の神ということは知っています!」
「がはは! カタブツのおめさにはぴったりだべ!」
そんな風に、私の呼称は故郷の神話を思い起こさせ、大尉を郷愁へと導いたようだった。
「おめさはおらの息子みてえなもんだでな!」
大尉はよくそう言って、私に特別目をかけてくれた。しかし甘やかすばかりではない。ときに叱咤し、ときに激励し、まさに息子のように扱った。
「アイスランドのオーロラ、見たことあるっぺ? そりゃあすげえもんだべさ! おめさにもいっぺん、見せてやりてえ!」
そう言っては私の頭をなで、笑ってスキットルに入ったシングルモルトをぐびぐび飲んでいた。
……そうだ、あれはとある日のことだった。
夜哨戒を終えて本営に帰ってくると、男所帯にありがちな、『そういう話』になっていた。
『男同士でも気持ちいいのかどうか』といった、そんな下世話な話だ。
慢性的な女性不足のため、しばしば軍隊では男性同士でそういった関係が成立することがある。
「なあ、試してみいひん?」
スペイン訛りのフランス語で、隊員のひとりが提案してきた。
「俺は突っ込む側がええけん」
ポルトガル訛りで別の男がそう言う。
「そうじゃ、ニャール、きさんが女役やるったい」
ベトナム訛りの隊員がいきなり私に水を向けた。
「え、自分が、ですか?」
「きさんはクソ真面目じゃ、どうせ男じゃ立たんったい?」
「ニャールはちょっと見たら女みたいに顔整っとるしなあ」
「どうせやるなら気持ちええ方がええじゃろ?」
断れない空気になった。
私にそのケはない。そもそも、戦場において性欲などというものを持ち込む考えすらなかった。すべて自分で処理すればいいと考えていた。
しかし、当時子供だった私は、その誘いを断ることはいくじなしのすることだと思ってしまった。受けてたってこそ男だと。今考えると愚かしいことこの上ない。
「ほれ、服脱げ」
言われるがままに軍服の上を脱ぎ捨て、下も脱ごうとしているときだった。
「こらー! おめらなにしてんだべ!?」
「やばっ、大尉や!」
「ニャールは大尉のお気に入りじゃけえの」
「ここは逃げるったい!」
私を囲んでいた隊員たちは、たちまち蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
後には半端に脱衣した私だけが残された。
やがて大尉が息を切らせて駆け込んできて、
「ニャール!」
私の名を呼んで、裸の肩を握りしめた。その手はかすかに震えていた。
「……こういうときは、断らにゃならんぞ」
「……いえ、自分は、別に……」
「大事なおめさのからだだで、よおく考えっぺ」
そう言って、大尉は私の裸の肩をするりと撫でさすった。
……しばらくの間、沈黙と焚き火がはぜる音ばかりが耳に降ってきた。
「……考えて、いいと思ったら、それでもええべ」
「……大尉殿は、そういった経験が?」
「……黙秘するだ」
大尉はなにか深く考え込むようにうつむいて、私の肩から手を離したり触れたりした。
それから、意を決したように半分脱げていた服を着せた。
きちんと着衣の状態に戻すと、大尉は一度だけ私のからだをきつく抱きしめ、離す。
「……おめさは、おらの息子みてえなもんだで」
そう言って、いつもどおり笑った。
「光栄であります、大尉殿!」
「がはは! まったぐ、おめさはニャールみてえなカタブツだっぺさ!」
「ありがとうございます!」
「おめさはしあわせんなれ! なにせおらの息子だがらな!」
「了解です!」
そんなやり取りで、戦場ではありふれた、ごく普通の一夜は過ぎ去っていった。
そんな大尉も、作戦で右足を負傷して除隊した。今ごろは、故郷のアイスランドに帰って、義足を引きずりながら、毎晩オーロラをさかなにシングルモルトをやっているのだろう。
……今思えば、大尉は同性愛者だったのかもしれない。
あの夜、もしかしたら私は大尉に抱かれていたかもしれないのだ。
しかし、大尉はひとりの大人の男として理性的に判断し、私に服を着せて、『息子のようなもの』だという言葉でおのれを律した。
あのとき、大尉の気持ちを察していれば、私は今ごろ、アイスランドで少しはニンゲンらしい人生を歩んでいたのかもしれない。
今の私を見たら、大尉はきっと失望するだろう。
『しあわせになれ』と笑っていた大尉には、こんなていたらく、見せられはしない。
私はもう、ニャールという子供ではない。
神はいないという現実を知ってしまった、ただの『最終兵器』なのだから。
……すべての追憶は、三秒ほどで終わった。
「……これは、軍隊にいたころの、ニンゲンだったころの名残です」
乱れた服を直して額の汗を脱ぐう春原さんに答えると、
「ふうん」
興味があるのかないのか、わからない生返事が返ってきた。
私たちはいつの間にか、作業台と椅子に座って向き合っていた。いつもなら逃げるように暗室から飛び出していくのに、今日の春原さんはなぜか私の話を聞きたがっているようだ。
なので、私は世間話をした。
「アイスランドのオーロラは、美しいそうです」
「え、なに、経費で連れてってくれんの!?」
「それがあなたの『創作活動』のインスピレーションに必要ならば」
「よっしゃ! まひろくんも連れてこう! なんなら所長や、できたら小鳥ちゃんも! 社員旅行inアイスランドだ! あー、アイスランドって寒いだろうなあ、アイスってくらいだからなあ!」
けらけらと笑う春原さんは、ふたりきりで行くつもりだった私の気持ちなどひとかけらも察していないらしい。その事実が、金属の平面であるはずのこころをわずかにささくれさせる。
しかし、それはあまりにもこころの距離を詰めすぎる行為だ。私たちの距離感は、いっしょにふたりで旅行に行くようなものではない。
私はあくまでも、『最終兵器』であり『調律者』。それを忘れないようにしなくてはならない。
ときに忘れかけるのは、すべて春原さんの責任だ。
しかし、また大尉に会えたのなら、ほんの少しだけでいい。
ニンゲンだったころのように、子供のように甘えて、本音を吐き出してしまってもいいのかもしれない。
思い出に立ち返るというのは、そういうことだ。
「……なに笑ってんの?」
「私は笑っていません」
「っかー! やっぱつまんねー男だな、てめえは! もういい、小生しりゃにゃーい!」
そう言って、春原さんはさっさと蒸し風呂状態の暗室を後にした。
ひとり残された暗室には、むせ返るような情交の、いのちのにおいが充満している。
……春原さんが残した『痕跡』を片付けてから、私も冷房のきいた事務所に戻ることにしよう。
体液が入り交じった水気をタオルで拭きながら、私のこころはいっとき、アイスランドのオーロラの下にあるのだった。