もう事務所に壊すものがなくなったころ、カゲローさんの視線がふと『巣』のプレートがかかった部屋の扉に向けられた。
……まさか……!
「……なあ、小鳥とかいったか……?」
ぜいぜいと息を乱しながら、カゲローさんは目を血走らせて金属バットを握り直した。
「こいつの正体暴いたら、ぜってーバズると思わねえ?」
……やっぱり。
だれも踏み込んだことのない開かずの扉を、カゲローさんは破ろうとしているのだ。
決して開けてはならないドアだと、事務所のだれもが言外にこころえていた。
なのに、今、侵入者によってその聖域は侵されようとしている。
「……や、め……」
「ひひひ、そこで見てろよ、『記録者』!」
笑いながら、カゲローさんは扉に向かって金属バットを振り下ろした。がん!と音がして扉の表面がへこむ。
……けど、その一発では破れなかった。
「けっこう頑丈だな! おらあ!」
がん、がん、と何度も殴りつけるけど、扉はぼこぼこにへこむばかりで開こうとはしない。
呼吸を乱すカゲローさんは、異物を見るような目で扉を眺めながら、
「なんだよ、このドア!?」
開かずの扉は、予想以上に鉄壁だった。それはそうだ、開けてはいけないドア、そう易々と突破できるはずがない。
「くっそ!」
今度は体当たりを始める。ぐ、と大きく扉がたわんだ。何度も体当たりを繰り返していると、扉がどんどんひしゃげていく。そして……
がらん!と扉が内側に倒れた。
「よし、やっと……」
『侵入者を検知。トラップを起動します』
「……へ?」
突然電子音声が聞こえて、カゲローさんがきょとんとした。
その瞬間、床から無数の鋭い槍が飛び出してきた。
……地下迷宮の罠みたいだ。
「ひっ……!」
さいわいにも、というか、不幸にも、というか、カゲローさんのからだはかろうじて槍と槍との間に挟まって、怪我は負わなかった。
しかし、トラップはまだ終わらない。
カゲローさんが槍をへし折ってようやくどいたその空間に、なにか高熱の液体が降り注ぐ。においからすると、煮えたぎった油だ。
……ますます迷宮のトラップじみてきたな……
「なんなんだよ、これ……!?」
その古典的な罠が、逆に不気味だった。青ざめたカゲローさんの殺意よりも、ずっと鋭い殺意が見え隠れしている。
入ってきたら殺す、という、強い拒絶の意志を感じた。
しかし、トラップもそれで種切れだった。
しん、と静まり返ってからしばらくして、カゲローさんが安堵したような笑声をこぼす。
「……ひ、ひ……! なんだよ、驚かせやがって!」
そして、スマホのライトを目の前の暗闇に向けた。
「さあ、本邦初公開! 『死体探偵事務所の禁断の聖域に踏み込むぜ』!」
……ライトで照らし出された光景に、その言葉も凍りつく。
それはまるで、レトロフューチャーの漫画に出てくるような見た目だった。
真っ暗な部屋には、ひとひとり横たわれるくらいのカプセルが置いてある。近未来SFなんかにありがちな、コールドスリープの機械を思わせた。
そのカプセルにはいくつも点滴の管が繋がっていて、けどスモークガラスの中は何も見えない。CTスキャンのような、脳波を読み取る機械らしきものもカプセルに取り付けられていた。
……こんな雑居ビルの中にあるにしては、あまりにも場違いな物体だ。
カプセルからはなんの光も音も発生していない。しかし、その中に小鳥さんがいることはたしかだ。
カゲローさんもそう思ったのか、気を取り直して隅々までスマホで撮影すると、
「ひひひ! なんと、死体探偵事務所の開かずの扉の向こうは宇宙人のアジトだった! 今からリトルグレイを引きずり出してやる! 見てろよ!」
そう言って、カゲローさんは金属バットをカプセルに向かって振り下ろした。『巣』の扉ほどの強度はないらしく、カプセルの表面には簡単にひびが入る。
「おらあ! もういっちょ!」
がしゃん!がしゃん!と、金属バットを叩きつけるたびにひどい音がした。カプセルは確実に破壊されていく。
スモークガラスが粉々になり、点滴のチューブはちぎられ、機械類は弾け飛んでスパークしている。
完全に侵された『聖域』から、カゲローさんは一本の白く細い腕を引きずり出した。
「出てこいよ、ヒキコモリ! いい加減外の世界を見ろ!」
ずる、と引き出したのは、全裸のニンゲンのからだだった。痩せ細り、肌は異常に白い。髪も同様に白く、からだ中に電極やチューブの管が張り付いていた。
そのすべてを引きちぎり、無理やりにカプセルの外へと追いやるカゲローさん。よく見れば、その手はいつも軍手に包まれていた、唯一存在を確認できる『あの手』だった。
……それが、小鳥さんの正体だった。
弱々しく抵抗するが、そんな細い腕では意味をなさない。必死に首を横に振り、外に出たくないという強固な意志を示している。
「おら、カメラにごあいさつしろ!」
その白い髪を掴み、無理やりに顔を上げさせると、カゲローさんのスマホのカメラに小鳥さんの顔が映し出される。
高校生くらいだろうか、カゲローさんと同じくらいの年頃の中性的な面立ち。しかしその目はウサギのように真っ赤で、眼球がふるふるとわなないている。
アルビノ、というのだろうか。ごく稀に色素を手放したような生き物が生まれると聞くが、実際に見るのは初めてだった。
そして……僕の視線は、全裸の股間に釘付けになった。
……見覚えのあるものがぶら下がっている。
僕にもついているものだ。
その排泄器官が指し示す事実は……
「ひひ! こいつ、男だったのかよ!」
カゲローさんが辱めるように小鳥さん……いや、小鳥くんの陰部を撮影する。
……まさか、男だったとは……
みんなが『小鳥ちゃん』と呼ぶので、てっきり女の子だとばかり思っていた。あの『巣』のポップな書体も相まって、股間についているものを無視すれば、その中性的な顔つきは女の子にしか見えない。
しかし、男だ。
間違いなく、生物学的にはオスだ。
……これが、小鳥くん……?
あまりにも初見の情報量が多すぎて、僕はことの重大さも忘れて混乱に陥っていた。
決して『巣』から出てこなかった小鳥くん。
『手』だけの存在だった小鳥くん。
それでもたしかに事務所のメンバーだった小鳥くん。
今、その秘められた真実が明らかになった。
少なくとも、設立者である所長は知っていただろう。
しかし、僕たちには一切小鳥くんのことは話さなかった。僕たちも無理に聞くことはなかったし、もう完全に『そういう存在』として扱っていた。
そんなあたたかな秘密に守られていた小鳥くんが、今、暴かれた。
ピラミッドの秘宝を奪う、『盗掘人』のような侵入者によって。
思わず、見てはいけないものを見てしまったような気分になった。これは、ずっと閉じ込めておくべきだった秘密だ。無理に破ってしまえば、壊れる。
そんな壊れ物であるがゆえに、小鳥くんはずっと、この『鳥かご』の中にひとりきりで引きこもっていたのだ。この『鳥かご』は、小鳥くんを閉じ込めるためのものではない。守るためのものだった。
だが、そんな防壁も、『盗掘人』の無作法な暴力によって突破されてしまった。
さらしものにされたか細いからだは、壊れてしまう。
大切に守っていたものが、壊される。
……そんなの、ダメだ。
「なんだよ、リトルグレイじゃねえのかよ! ただの白髪の男じゃん! 撮れ高期待したのになー!」
小柄な手首をつかんで裸体を吊り下げるようにしながら、カゲローさんが吐き捨てる。その口調は、自分が神の領域を侵した『盗掘人』であることを自覚していない。
「なんか言えよ、ほら!」
がくん、とはだかのからだを揺さぶり、けしかけるカゲローさん。
なにもできない僕は見ているだけだった。