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№8 焼かれた五感

 そのとき、ひゅ、と小鳥くんの喉が鳴った。なにかの前兆のように、小さな喉仏がわななく。


 そして、次の瞬間、悲痛な絶叫が室内に響き渡った。


「くさいからいうるさいまぶしい痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいいたいいたいいたいいたいいいいいいいいいいいいい!!」


 初めて聞いた小鳥くんの声は、あまりにも残酷な悲鳴だった。声帯が擦り切れるほどの大音声で、声がほとばしる。


 痛い? まぶしい??


 まるで、外に出た瞬間に五感を焼かれたような叫び声だ。『鳥かご』の防御癖が崩れて、外の世界にさらされて、そのあまりにもノイズに満ちあふれたリアルに触れて、脳が壊された。


 小鳥くんは激しく咳き込み、そのまま嘔吐し、失禁した。吐瀉物と尿で足元を濡らしながら、がくがく痙攣している。瀕死の小鳥の断末魔のような、激烈な反応だった。


「……な、なんだよ……こいつ……?」


 その狂態におののいたカゲローさんが、とっさに手首をつかんでいた手を離した。どさ、と汚物の海に震える小さなからだが落ちる。


 なおもわめきながら吐き、びくびくと痙攣する小鳥くんを見下ろして、カゲローさんはもはや真っ青になっていた。とんでもない『モンスター』を暴いてしまったと、ようやくわかったようだ。


「……気味悪ぃ……!」


 『禁忌』に踏み込んだ『盗掘人』は、そうつぶやくとそのままこけつまろびつ部屋から飛び出していった。小鳥くんのあまりにも過敏な反応に、さすがのカゲローさんもおそろしくなって逃げ出してしまう。


 それはそうだろう、僕だって正直、こわい。


 あの小鳥くんがこんなに錯乱している。なにもかもが想定外の事実だらけで、なにから対処していいかわからない。混乱して、狼狽していた。


 小鳥くんが、こわい。


 未知を具現化したような存在。


 ニンゲンゆえに、僕は未知の存在をおそれた。


 ……しかし。


「……いたい、いたい……くるしい……たすけて……」


 瀕死の小鳥くんが、そこにいる。


 僕と同じ『共犯者』が、苦しんでいる。


 だとしたら、やることはひとつだ。


 僕は着ていたシャツを脱ぐと、それで小鳥くんをくるんだ。その上からそっと抱きしめて、


「大丈夫です、僕がいますから」


「…………まひ、ろ…………?」


 過呼吸の隙間から、涙とヨダレと吐瀉物でぐしゃぐしゃになった顔でつぶやく。よかった、僕のことはちゃんと知っているようだ。


 喘鳴を上げる小鳥くんを、シャツの上から壊さないようにやんわりと包み込む。


「大丈夫です。ここにいますから。もうこわいことなんてありません。だから、落ち着いてください」


「……まひろ、けが、してる……?」


 僕もまた、胃液と血にまみれている。それに気づいた小鳥くんが、乱れる呼吸の間で震える手を伸ばしてきた。


「……だい、じょうぶ……?」


 自分がこんなことになっているのに、僕の心配をしてくれている。やっぱり、小鳥くんは悪い子ではない。


 その手をそっと握ると、僕は無理やり笑って見せた。


「大丈夫です、これくらい。だから、小鳥くんも落ち着きましょう。痛くなくなるまで、いつまでもいっしょにいますから」


「……けど、ことりは……」


「事情なんて今はどうでもいいです。どうすれば落ち着きますか?」


 僕が尋ねると、小鳥くんはしばらくの間逡巡して、


「……もうすこし、こうしてて……」


「わかりました」


 シャツにくるんだ小鳥くんを、やんわりと、けどしっかりと抱きしめる。


 だんだんとその震えが落ち着いてきた。もう嘔吐することもない。ときおり咳き込みながらえづいたりはするけど、それも頻度が落ち着いてきた。


 まだ呼吸は荒いけど、腕の中の小鳥くんは少しづつ、落ち着きを取り戻そうとしている。


「……カプセル、まだ動いてる……?」


 金属バットの暴力でスモークガラスや一部の機材は破壊されているけど、まだ完全に沈黙したわけではない。ちきちきと動いている音がしている。


「カプセルに戻った方がいいですか?」


 そっとささやきかけると、小鳥くんはわずかにうなずいて見せた。今は、少しでもラクになれる場所に寝かせて落ち着かせたい。


 僕は小鳥くんを抱えると、ばきばきになったスモークガラスをできるだけよけてから、壊れかけのカプセルにその小さなからだを横たえた。


 きゅん、と反応した機械が、小鳥くんの頭部を覆う。チューブ類や電極類は僕では繋ぎ直すことができないから、そこは少し辛抱してもらおう。


 ふかふかのカプセルの中で五感を遮断されて、ようやく小鳥くんの呼吸が落ち着いてきた。


「なにか……こういうときに飲んでる薬とか、あります?」


 カプセル以外なにもない室内を探しながら、質問する。


「……ない……こんなこと、今までなかったから……」


 蚊の鳴くような声で答えると、小鳥くんはそのまま沈黙してしまった。


 薬がないとなると、やはりあの点滴やチューブをつながなくてはならない。おそらくは、小鳥くんの生命維持に必要不可欠なものなのだろう。一晩くらいはなんとかなるかもしれないけど、あまり不自由はさせたくない。


 となると、半分壊れたカプセルでおとなしくしていてもらうことしかできない。


 ……少しの間、静寂が広がった。


 けど、『うるさい』と狂乱状態に陥っていた小鳥くんからしてみたら、これは決して静寂ではないのだろう。


 ホワイトノイズ、呼吸の音、遠くから聞こえるかすかな物音、あるいは自分の鼓動さえ雑音に聞こえているのかもしれない。


「……そうだ」


 ふと思いついた僕は、事務所に放り出してあったカバンを取りに戻った。『巣』に帰ってくると、カバンからノイズキャンセリングイヤホンを取り出し、


「もしかしたら、これで少しは気が紛れるかも……使っても大丈夫ですか?」


 こくり、と小さく小鳥くんがうなずく。


 その耳にイヤホンを装着すると、ノイズは多少やわらぐはずだ。


 ふう、と小鳥くんの薄い胸が安堵したように上下する。やっぱり正解だった。


 光と音は遮断できた。けど、空気中に漂っている物質まではどうしようもできない。


 くさくて、からくて、痛いだろう。


 外の空気は、小鳥くんからすれば毒でしかないのだ。


 まさに、生まれたての小鳥のようにもろくはかなく弱々しい存在。


 まさか、『巣』の中にはこんな真実が隠されていたなんて。所長は知っているだろうけど、無花果さんも三笠木さんも知らないだろう。


 そんな秘密の『鳥かご』を暴いた『盗掘人』に対して、改めて怒りがわいてきた。こんな秘密、だれも知らないままでよかったのに。それで小鳥くんが守られるのなら、僕たちはあの『手』だけで充分だったのに。


 『巣』の中にひとが入ったことがないと言っていた。小鳥くんからすれば、これは想定外の事態だ。しかも、カプセルを壊されて引きずり出された。さぞかしショックを受けているだろう。


 ……もしかしたら、僕も入ってはいけなかったのかもしれない。


 ニンゲンは、存在するだけでなにかしらのノイズを放っている。光や音、におい。触れ合えば、その感触が返ってくる。


 だとしたら、僕もここにいてはいけない。


「……落ち着いたら、呼んでください」


 そう言い残してカプセルの前から去ろうとした僕の袖口を、細い手が引き止めた。目を見開いて小鳥くんを見やると、その口元がかすかに動いた。


「……いかないで……まひろと、いっしょがいい……落ち着くから……」


「いいんですか? 僕も『ノイズ』ですよ?」


「……まひろの音なら、我慢できる……まひろのにおいなら、安心する……」


 ……そうだった。


 ニンゲンは、五感のみで生きているのではない。


 感情という第六感がある。


 五感が拒絶していても、こころが欲しているのならば、僕はここにいよう。


 カプセルのそばにしゃがみこんで、僕は息を殺しながら小鳥くんの姿を見つめるのだった。

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