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№9 『全知零能』

「……小鳥は、感覚が異常に鋭すぎる体質なんだって、笑太郎が言ってた……」


 しょうたろう、というのは所長のことだ。やっぱり、所長は小鳥くんのことを知っていた。知っていてなお、僕たちには秘密にしておいたのだ。


 それに対してはなにも思わない。隠しごとなんてだれにでもあることだし、ことがことだ、むしろ秘密にしておく方がいいに決まっている。


「……外のものは、みんな、まぶしいしうるさいしくさいしからいしいたい……だから、小鳥はこの『巣』から出られない……暗くて静かで、きれいな空気の中で、なにも肌に触れない状態で、味のしない栄養剤と、お水と、少しだけ感覚を麻痺させるお薬で生きてきた……」


 その結果が、この近未来SFみたいなカプセルか……


 あらゆる五感が鋭すぎて、外のものはみんな毒となって小鳥くんに襲いかかる。服を着てなにかを食べるというニンゲン的な行為さえ許されないのだ。


 こんな狭くて暗くて静かなカプセルの中で、ひとりぼっちで生きてきた。どういう経緯でいつからこんな状態になったのかは知らないけど、きっとさみしかっただろう。


 袖口を握る手にちからがこもった。


「外の空気、ちょっとでも吸うと息ができなくなる……笑太郎は『アレルギー』って言ってた……肌にこすれて痛いから、服も着たくない……自分の心臓の音も、うるさい……なにかしゃべると、自分の声が頭蓋骨の中でわんわんする……真っ暗じゃないと、まぶしすぎてなにも見えなくなるし、目玉が破裂しそうになる……」


 鋭すぎる五感は、小鳥くん自身さえ『ノイズ』にしてしまう。生きている限り、小鳥くんだって無音無味無臭ではいられない。ニンゲンのにおいはするし、涙の塩味は劇薬だ。鼓動や呼吸の音も脳内に響いて仕方がない。


 だからこそ、小鳥くんは自分をこの二重の『鳥かご』に封じ込めて押し殺した。たくさんの秘密を抱いたまま、引きこもってしまったのだ。


 仕方ないことかもしれないけど、こんなの生きているニンゲンのすることじゃない。あまりにも、ひどすぎる。かなしすぎる。


 世界中のすべてが毒で、だから自分の方が引っ込むしかないなんて、理不尽すぎやしないだろうか。


「……外のことは、知ってた……まひろのことも、無花果のことも、国治のことも、笑太郎のことも、みんな、知ってた……笑太郎の配信があったから……」


 まさか、所長は小鳥くんのためにカメラを回し続けていたのだろうか?


 それだけではないにせよ、小鳥くんをひとりにしないようにと事務所の様子を映していた、そういう側面は充分に有り得る。


「……どうやってネットに繋いでたんですか?」


 素朴な疑問を投げかけると、小鳥くんは頭部を覆う機械を指さして、


「……これ、脳波を読み取る機械……パソコンもモニターもキーボードも使えないから、これで直接ネットの海に潜ってる……だから、無花果のお願いで調べものしたり、ネットで必要なもの買ったりできる……」


 なるほど、とんでもなく高度なテクノロジーが使われていることだけはわかった。いよいよサイバーパンクじみてきた。


「みんな、見てた……まひろが新しく入ってきたときも……無花果の『作品』だって、ずっと見てきた……依頼に来たひとのことも、なにもかも……けど、小鳥はなにもできない……全部知ってるのに、なにもできない……」


「そんな、ことは……」


「だって……!」


 小鳥くんの声に涙がにじむ。それでも泣くのをこらえるように、ふ、ふ、と息をしながら、


「と、とんこつラーメンだって……! 食べられない……! いつも、食べるフリして、捨ててた……! 捨てられて、ぐちゃぐちゃになったとんこつラーメン見て、なんで小鳥はこんな風に生まれちゃったんだろう、なんで小鳥はみんなといっしょにご飯食べられないんだろうって、かなしくてかなしくて、仕方なかった……!」


 ……まさかの事実が明かされた。


 みんなで囲んでいるとばかり思っていたとんこつラーメンは、小鳥くんの口に入ることなく捨てられていた。


 あんな食べ物なんて、小鳥くんにとっては劇物だ。食べられるはずがない。


 なのに、僕は毎回毎回、小鳥くんのところにラーメンどんぶりを持っていって……自分が無意識にしていた行為が、どれほど残酷なことだったのか、急に目の前に突きつけられてめまいがした。


 く、と喉を鳴らして、小鳥くんが続ける。


「……ただ、みんなといっしょにとんこつラーメン、食べたかった……みんなといっしょがよかった……それなのに、小鳥だけ、違う……神様は、意地悪……小鳥をこんな風に作って、なんでだろう……? 小鳥は、ただ、みんなと同じニンゲンでいたかっただけなのに、そんなこともできないなんて……神様は、なんでこんな風に小鳥を作った……?」


 ……僕は、なにも答えられなかった。


 代わりに、あってないような、毒にも薬にもならない慰めの言葉をかける。


「……神様なんて、いないと思った方がいいですよ」


「それでも、小鳥はだれかに聞きたい……なんで小鳥だけ違うのか、って……そんなにぜいたくな願いなのかな? みんなといっしょにとんこつラーメンが食べたいって、それだけなのに……みんなとの間には、絶対に越えられない透明なガラスの壁がある……見えるのに、触れられない……ネットでなんでも知ってるのに、なにもできない……」


 小鳥くんは、いわば『全知零能』だ。


 たしかに、ネットを通じてなんでも知っている。ときには無花果さんが頼りにするほど、たくさんのことを知っている。わからないことなんてない。


 しかし、絶対的に世界に干渉することはできない。あくまで受動的で、決して能動的にはなれない。みずからの意思で世界を変えるということができないのだ。


 なんて歯がゆいことだろう。


 薄皮一枚隔てたそこには、みんながとんこつラーメンを囲んで笑いあっている現実があるのに、小鳥くんだけはそこに加われない。ただ見ていることしかできない。


 たとえばだれかが悩んでいたり困っていたりしても、手を差し伸べることはできない。だれかを救うことすらも許されていないのだ。


 ……そんなの、神様という存在を恨まなければ、発狂してしまう。


 関われないくせに、全部知ってしまう。


 触れられないのに、そこにあるという現実を突きつけられる。


 それがどんなにくやしいことなのか、僕なんかには測り知ることもできない。


 こんなにも普通のことなのに、絶対に叶わない。


 とんこつラーメンを捨てながら、ぐしゃぐしゃの顔で泣いている小鳥くんの顔が脳裏に浮かんだ。こんな痛々しい光景が、この『巣』の中にあっただなんて、思いもしなかった。


 たったひとりでこの小さな『鳥かご』の中で、小鳥くんはそんな涙をいくつも噛み殺してきたのだ。


「……なんでも知ってるのに、これだけはわからない……なんで、小鳥はみんなといっしょじゃないのかな……わかってる、おかしいのは世界じゃない、小鳥だって……だから、小鳥は外に出ちゃいけないんだ……その方が、小鳥にとっても、世界にとっても、きっといいことなんだ……」


 一度は落ち着いていた小鳥くんの口調が、混乱の色を帯びていく。少しづつ息を乱しながら、それでも小鳥くんは語り続けた。


 語らなければ、吐き出さなければ、きっと破裂してしまうから。


 僕には、黙ってそれを聞くことしかできない。


 『鳥かご』から引きずり出された鳥の鳴き声を、聞き届けなければならない。


 きっと、それが『記録者』としての僕の勤めだ。


 小鳥くんの言葉のすべてを、ちゃんと『記録』して、『記憶』する。受け止める。


 同じ『庭』にいるのだから、なおさらだ。


 僕は勇気づけるように、小鳥くんの手を軽く握り返すのだった。

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