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№10 ぴぃちくぱぁちく

「……新しいひとが来たのも知ってた……クビになったことも……けど、笑太郎のカメラがないから、こんなことになってるなんてわからなかった……小鳥は寝てるところを引きずり出されて、世界の毒に晒されて、小鳥は、ことりは……!」


「大丈夫です、無理して一気にしゃべらなくていいんですよ、ゆっくりでいいですから」


 また震えが大きくなる手を握り返し、僕は話を急ぐべきではないと判断した。少し休憩を挟んだ方がいいのかもしれない。


 それでも、小鳥くんは語り続ける。


「やっぱり、小鳥は外の世界では生きていけないんだって、よくわかった……この小さな『巣』の中で、ネットにだけ繋がって、世界をじっと見つめながら、絶対触れられない、小鳥の現実にはならないんだって、ずっとずっと、思い知って……」


 どれほど外の世界が輝いていても、小鳥くんにはまぶしすぎる。


 どれほど外の世界が笑い声で満ちていようとも、小鳥くんにはうるさすぎる。


 どれほど触れたいと願っても、返ってくるのは痛みだけだ。


 だからこそ、小鳥くんはここでしか生きていけない。


 この『巣』に引きこもって外に出たくないんじゃない。


 出ることができないのだ。


 空気に触れた瞬間、小鳥くんは五感を焼かれて苦しみ悶えることになる。普通にこの世界で息をする、その程度のことすら許されない。


 そんな小鳥くんに用意された二重の『鳥かご』は、閉じ込めるための囲いではなかった。


 小鳥という生き物は、ちょっとしたことですぐに死んでしまう。猫にやられたり、羽根が折れたり、冬の寒さや夏の暑さで死んでしまう。


 だからこそ、『鳥かご』で守る必要がある。


 外に出さないためではない、中に入れないための防壁。


 毒である世界と小鳥くんを遮断するための、唯一の方法がこれだった。


 ……たとえどんなに孤独にさいなまれようとも。


 生きていくためには、すべてが仕方のないことだった。


 所長は、小鳥くんを生かすことだけを考えて、この『鳥かご』を作って、そこに放った。カメラを回し続けて外の様子を見せ、秘密を守り通した。


 これは、愛という名の『鳥かご』だ。


 ただ生きていてほしいと願う所長の愛で、小鳥くんはずっと守られてきた。


 ……その『鳥かご』も、今や無法者の手で破られてしまったけど。


「……笑太郎には、ありがとう、って思ってる……こうしなきゃ、小鳥は生きていけなかった……外の世界には出ちゃいけないから、笑太郎はここに小鳥をかくまってくれた……けど、」


 ほ、と小鳥くんが一息つく。それから、


「……たまに、思う……こんな風に生きてて、ただ生きてるだけで、小鳥はなんなんだろうって……だれかに触れることも、知られることもなくて、ネット越しにしか関われなくて……きっと、意味なんてないんだろうな、って……」


「……そんなこと、」


「いいの……なんにもできない小鳥には、意味なんてない……ただ生かされてるだけの、出来損ないなんだって、わかってる……」


 ……そんな風に、言わないでほしい。


 胸が締め付けられるようなここちがして、僕は奥歯を噛み締めた。


 自分のことを『出来損ない』と卑下して、この『鳥かご』の中で生きて、死んでいく。


 強制的な無力に抗うことすらできず、もがくことすら許されずに、ただ朽ちていくばかりのいのち。


 そういう意味では、所長の愛は残酷だった。


 たしかに、小鳥くんのいのちはこの『鳥かご』によって守られている。


 しかし、こころは、声は、『鳥かご』に遮られてどこへも行けずにいる。


 どこかしょんぼりとして、止まり木に止まっていることしかできないのだ。


 ……外に出れば、すぐに死んでしまう。


 けど、そんな風につないだいのちは、本人にとって納得のいくものだろうか?


 『出来損ない』のまま生きていくことに、小鳥くんは満足しているのだろうか?


 ……答えは、否だ。


 小鳥の翼は、飛ぶためにある。


 金網越しに見上げる空は、底抜けに青く広い。


 そんな空に向かって羽ばたくときは、まさしく今なんじゃないだろうか?


 無理やりにでもこじ開けられた『鳥かご』の外へ一歩踏み出すのは、今しかない。


 もう、小鳥くんはただの傍観者ではいられなくなったのだ。


 僕は暗闇の中で唯一頼りになる小さな手を握り、


「……けど、ここには僕がいます。ちゃんと触れて、感じて、ここにいるってわかるでしょう?」


 びく、と握った手が震えた。それを逃すまいと握る手にちからをこめながら、僕は続ける。


「こわい思いをしたでしょう。けど、そのおかげで僕は小鳥くんと触れ合えた。小鳥くんのことを知った。小鳥くんだって、僕と触れ合えた。僕のことを感じた。わかりますか? これがニンゲンです。ほら、ちゃんと手が届いたでしょう?」


 弱々しい手が、たしかめるように僕の手のひらの輪郭をなぞる。そして泣きながらぎゅっと握りしめ、


「……うん……うん……わかるよ、これがニンゲン……やっと、手が届いた……同じ場所で、生きられる……小鳥の願いが、叶ったんだ……」


「そうですよ。僕は痛いかもしれませんけど、この痛みこそが存在の証です……もう、ひとりじゃない。ただの傍観者でいる時間は、終わったんです。何度でも言います、小鳥くんはひとりじゃない。たとえとんこつラーメンが食べられなくても、みんなといっしょのニンゲンです」


「……うん、うん……」


「だから、『出来損ない』なんてかなしいこと、言わないでください。意味のないいのちだなんて、そんなものはあるはずないです。今まで『死んでなかっただけ』なら、たった今から『生きれば』いいんです。良くも悪くも、もう『鳥かご』は壊れた。あとは、『生きて』いくだけです」


 たとえ焼かれても、必死で羽ばたく。


 壊れた『巣』から飛び立って、世界の毒を浴びながら、今度はきっとだれかを救うことができる。


 もう、小鳥くんの『鳴き声』は僕の耳に届いてしまったのだから。


 小さな手が、甘えるように指を絡めてくる。されるがままにじっとしていると、泣き止んだ小鳥くんがその感触をたしかめるようにつぶやいた。


「……まひろが触ってくれてる……初めて、ニンゲンの体温は焼けるくらい熱いって、知った……それから、焼けてもいいから、ずっと触っていたいって、思った……初めてだった、ひとのにおいで落ち着くってわかったのも、ひとの声がこんな風に鼓膜を震わせるものだってわかったのも……」


 小鳥くんにとって、今夜はなにもかもが初めてだった。引きずり出されて、毒と悪意に晒されて、僕というニンゲンに触れて、ナマの生き物が『巣』の中にいて……


 衝撃的だっただろう。


 しかし、小鳥くんはそれを受け入れた。


 震えながらも、僕という『ノイズ』を肯定したのだ。


 それは、ただただいのちを繋いでいるだけだった小鳥くんにとって、大きな人生の転換点になった。


 望んでも届かなかった世界に、やっと手が届いたのだ。


 焼かれながらも、毒の世界に向かって大きく羽ばたいた。


 もう、『鳥かご』は壊されてしまった。


 秘密は暴露され、真実が丸裸になった。


 だったら、もうここに留まることはできない。


 それに、もう知ってしまった。


 ニンゲンという存在の、痛みと共にあるここちよさを。


 そして、小鳥くんも痛みとともに同じようなここちよさを宿しているニンゲンだということも。


「……だから、ありがとう、まひろ……ここにいてくれて」


 初めて、小鳥くんが微笑んだ。ロクに表情筋を使ったことがないのが丸わかりのいびつな笑みだったけど、それはたしかに僕に向けられた感情の『表現』だった。


「……どういたしまして」


 生まれたての雛がぴぃちくぱぁちくと鳴くのを見ているここちで、僕も照れ笑いを浮かべる。


 ……今夜は、歴史が変わった夜だ。


 たとえそれが望まない形であるにせよ、ひとつの歴史が終わり、始まった。


 そこに立ち会えたことを光栄に思って、僕は握手するようにそっと小さな手を握り返すのだった。

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