「……けど、小鳥にはなにもできない……まひろには触れても、世界に触れないのは同じこと……」
笑顔を少しさみしい色にして、小鳥くんはつぶやいた。
「小鳥には、みんなみたいなちからはない……」
「そんなことないですよ」
つい、口を挟んでしまう。気がつけばそう言っていた。
……いいや、どうにでもなれ。
小鳥くんの無力を否定した僕は、そのまま思うがままに言葉を連ねた。
「ここに……この『庭』にいるってことは、少なくとも芸術にこころを動かされたからでしょう? だからこそ、役割を与えられた。小鳥くんは、無花果さんのために調べ物をしたり、『創作活動』の準備をしたり、ちゃんと『庭』の一員としてここにいる。だから、なにもできないなんてことないです」
そうだ。小鳥くんにはいつも助けられている。たとえ『巣』の内側からであっても、できることはあるはずだ。
それでも、小鳥くんはかなしげに笑う。
「……それって、小鳥じゃなくてもできること……」
……そう言われて、言葉を飲む。なにも言い返せなかった。
たしかに、これは小鳥くんでなくてもできることだ。『庭』にいる理由はある、役割もある。けど、それは小鳥くんでなければいけない理由にはならない。なれないのだ。
外の世界に初めて触れた小鳥くんは、今、初めて相対的なアイデンティティ問題に直面している。他者と比べて、自分はなんなのかと問いかけている。
今までは、『鳥かご』の中でひとりで存在していればよかった。そこには絶対的な評価しかなかった。
しかし、外の世界に晒されて、他者というものを認識して、比較することを覚えてしまった。
他のみんなには、『そのひとでなくてはならない』理由がある。しかし、小鳥くんにはそれがない。
他人に触れるということは、相対的に自分を見つめること、比較することの始まりなのだ。
それがしあわせなことなのか、ふしあわせなことなのかはわからない。けど、その変化は有無を言わせず訪れる。
小鳥くんは薄い胸をゆっくりと上下させながら、
「無花果のアートは、すごい……あれは、無花果にしか作れないもの。無花果じゃなきゃいけない……そして、それを『記録』するのは、まひろのカメラじゃなきゃいけない……国治も、笑太郎も、そこにいなきゃいけない……小鳥も、そんな理由がほしい……これって、わがままなのかな……?」
あんな風になりたい、こんな風になりたい。
今までなかった欲望が、小鳥くんの中に生まれている。
空を飛ぶためには、それなりの理由と栄養が必要なのだ。
小鳥くんを『鳥かご』から出してしまった僕は、なんとかその理由と栄養を与えたかった。空を見せてしまった責任を取らなければならない。希望を見せたからには、背中を押さなければならない。
「……無花果さんの『作品』を見たら、小鳥くんはどうなりますか?」
糸口を見つけようと、僕はそんな問いかけを投げる。
小鳥くんは少し考え込んでから、
「……音楽が……頭の中に、流れる……」
「音楽?」
不思議な答えが返ってきたので、僕はより深く聞こうと繋いだ手を握った。大丈夫だよ、と。
それに勇気づけられたように、小鳥くんはぽつりぽつりと語り始める。
「……共感覚、って知ってる……?……なにかの感覚が、別の五感に変換される現象……小鳥は、五感で感じたものが音楽になって頭の中に流れる、そんな共感覚を持ってる……からだで感じたものが全部、音楽になる……」
共感覚。聞いたことはある。数字に色がついて見えたり、触れたものから音が聞こえてきたりする特殊な感覚だ。そんな特殊能力がないニンゲンからしたら、まるで超能力みたいに聞こえるけど、小鳥くんがその能力の持ち主なら……もしかしたら。
「そのノイズは、うるさくない……頭の中に、ぐるぐる、流れ込んでくる……だから、無花果のアートを見ると、音楽が頭の中に流れてくる……」
それが、小鳥くんなりの世界の、『作品』のとらえ方だった。五感は聴覚に収束し、頭の中に音楽となってあふれ返る。
……それは、一体どんな感覚なのだろうか?
小鳥くんを小鳥くんたらしめているのは、まさにその共感覚であるような気がした。もしも小鳥くんでなくてはならない理由があるとしたら、そこだ。
……けど、僕はそれ以上に、小鳥くんが『聴いた』世界の音を聞いてみたかった。
「……じゃあ、初めて僕に触れて、そのとき音楽は流れましたか?」
問いかけると、小鳥くんは小さくうなずき、
「……流れた。今もぐるぐるしてる……」
「それ、ここで出力できますか?」
僕の申し出に、小鳥くんはしばらくきょとんとしていた。ためらうように考え込んだ後、
「……脳波をスーパーコンピュータで読み込めば、すぐに出力できる……ちょっと、恥ずかしいけど……やってみる」
暗闇で手を握る手に、小さなちからがこもる。
「……聴いてくれる、まひろ?」
「もちろんです。ぜひとも聴かせてください……こわがらなくて、いいですよ」
その手を壊さないように握り返し、僕は告げる。
小鳥くんの頭部を覆う脳波センサーが、わずかに音を立てた。そして、小鳥くんの聴いている音を現実に再構成していく。
……やがて、スピーカーから音が流れ出した。
最初は、BPM60程度の、鼓動のようなバスドラム。
それから、クジラの鳴き声のような旋律がゆっくりと漂い始める。音階を移ろいながら、包み込むように。
やがてバイオリンのような音が併走してくる。クジラの鳴き声を消さないように、寄り添うようにその輪郭を際立たせる。
ゆっくり、ゆっくりと流れる旋律には、やがて線香花火のような金属の高音が重なった。ちらちらと音の全体を刺激するように、きらめく星のまたたきのように、スパークする。
それぞれまったく違うすべての音が調和し、たゆたう。ゆったりと、やさしく流れて、ときに鼓膜を、ちり、と焦がす。
刺激と、ぬくもり。肌の感触と、温度。少しの弱々しさと、安堵。やさしさと、不安。
小鳥くんが僕に触れたときに、そんな感情を抱いていたことを、僕はすっかり理解した。
無花果さんの『作品』を理解するのと同じように。
……そうだ、これは『表現』だ。
小鳥くんが吐きながらも咀嚼して、消化して、排泄したものだ。
だからこそ、小鳥くんが感じた世界は、こんなにも胸を苦しくさせる。ほろ苦くも甘い切なさがじんわりとこころの中に広がる。
ただ美しいだけじゃない。
聴いたものは、いやでも想起させられるだろう。
これは、小鳥くんが『僕を』認識した音楽なのだと。
焼かれるような痛みに耐えながら、それでも触れていたいと願った、小鳥くんのたましいが嘔吐したものなのだと。
音楽は、鼓膜を震わせ、脳に直接訴えかけてくる。
視覚よりも直観的なアート。
しかし、これは鋭すぎる小鳥くんの五感が変換された音楽なのだ。
それゆえ、僕という存在の輪郭がくっきりと浮き彫りになる。正確には、『小鳥くんが感じ取った僕』か。五感で感じたすべてを音楽で『表現』している。
感覚を解剖して、理解して、再構築する。
やっていることは『創作活動』とまったく同じだ。
食って、消化して、排泄する。
ロクに食えない小鳥くんは、それを苦労してやってくれたのだ。
ただそれだけで、この『表現』は尊ぶべきものになった。
苦しみの末に産み落としたもの。
本来、芸術とはそんなものだ。
僕はしばらくの間、『小鳥くんが感じた僕』の音楽の中を遊泳しながら、音のカケラのひとつも逃すまいと、その旋律に注意深く耳を澄ませるのだった。