……音楽が鳴り止んでからも、僕はしばらくなにも言えずに息を飲んでいた。
「……まひろ、どうだった……?」
ひどくおどおどした声音で、小鳥くんが聞いてくる。初めて他者に聴かせた『表現』なのだ、そうなるのも無理はない。
「……すごい……」
ため息のような声が、喉からこぼれてきた。
「……母親の胎内に戻ったみたいだ……ずっと、聞いていたい……ここちいい……なのに、壊れそうで少しこわい気もする……」
繊細すぎる五感で感じ取った小鳥くんの『僕』は、ランプで照らされたガラス細工のようだった。静かできれいであたたかくてまぶしいのに、どこか壊れそうで不安にもなる。
……そうか。小鳥くんは、こんな風に感じているのか。
その『表現』を、僕は理解した。
しっかりと、伝わった。
同時に、世界は、『僕』は、こんな芸術で表わされるのだと驚いた。
まぎれもなく、これは芸術だ。
「……音楽は専門外ですけど……この音がすごいことだけは、わかります。脳がいっしょになって揺れてる……こころが、歌いたがってる」
思いついた言葉がどんどん口からこぼれ落ちていくけど、とてもそれだけじゃ追いつかない。言語化できない感動が、いっそもどかしかった。
言葉を探していると、ふいに小鳥くんの赤い瞳から、ぽろ、としずくが滑り落ちた。それは次々と白い頬を伝っていき、一部はくちびるの隙間に入り込む。
「……からい……」
涙すら劇薬に感じてしまう小鳥くんは、そう言いながらも泣き止まなかった。
大丈夫だ、と繋いだ手にちからを込めて、僕は小鳥くんが泣き止むまで待った。
「……小鳥も、『表現』……届いた……小鳥にしかできない、『表現』……」
涙にあえぎながら、小鳥くんは口元をゆるめる。ほう、とため息をつき、しゃくりあげ。
「……そうですよ、きちんと届きました」
小さな『表現者』に敬意を払って、僕は正直に告げる。
「なにもできないなんてこと、なかったじゃないですか。小鳥くんだって、立派な『表現者』です。これは、小鳥くんにしかできないこと……小鳥くんじゃなきゃダメなんですよ」
「……うん、うん……」
「僕たちと同じ、『庭』の『表現者』です。なにも違わない。小鳥くんは……『協奏者』ですね」
そうだ、この小さな『表現者』には、存在に寄り添って感じたことを奏でる『協奏者』の名がふさわしい。
「……『協奏者』……」
「ええ。僕たちと同じ、役割のある住人です……改めて、ようこそ、魔女の『庭』へ」
こわくないよ。おいで。
そんな思いを込めて、僕は何も見えない中で小鳥くんの手を取った。
「……ああ……小鳥も、みんなといっしょなんだ……いっしょに、いられるんだぁ……」
握手をするように、僕の手をゆるく揺らす小鳥くん。ほどいたこころからこぼれ出したのは、透明な涙。
……たしかに、僕たちはニンゲン未満の『モンスター』だ。『庭』でしか生きられない、異端者たちだ。
けど、ちゃんと共鳴している。
同じ『表現』で、通じあっている。
僕たちの間には、違いも優劣もない。
『表現』することによって、小鳥くんは救われた。
この音楽は、小鳥くんが『モンスター』として、あるいはニンゲンとして初めてする排泄なのだ。
その排泄物に、意味が宿った。
初めて、世界と繋がることができた。
……やっぱり、この夜は歴史的な一夜だ。
『鳥かご』の中の歴史が終わり、『協奏者』の歴史が始まった夜。
今まで隔絶されていた住人が、本当の意味で『庭』の一員となった、『記録』すべき夜だ。
ニンゲンも『モンスター』も、排泄しなければ生きていけない。いつかは破裂してしまう。
小鳥くんは、何年も何年も排泄物を溜め込んで、苦しんで生きていたのだ。たったひとり、『巣』の中で。
食べたものを吐き出したい。生きるために無理やり食べたものを、早く外へ出したい。
だれかに、吐き出すところを見ていてほしい。
そんな『だれか』を夢想することすら許されなかった。
……これは、孤独、などという生易しいものではない。
無意味で無力な存在であることをその身に課せられた、『鳥かご』の中でしか生きていけない鳥。小鳥くんには、そんな空っぽなアイデンティティしかなかった。
けど、僕はたしかに聴いた。
小鳥くんが奏でる音を。
きちんと、『記録』した。
これは、『表現』によるコミュニケーションだ。『モンスター』同士にしかわからない、きずなだ。
そういう風にしか繋がれないからこそ、僕たちはニンゲンであり、『モンスター』なのだ。
『表現』は、ひとを救う祈りであり、ひとをあやめる呪いでもある。
けど、ときとして『表現者』自身を救うことだってある。吐き出したくて吐き出したくて、破裂しそうになっている『表現者』は、『表現』することによってのみ解き放たれる。
しかし、それはだれかがそばで見ていなければ成り立たないことなのだ。
排泄物に意味を与える他者が必要だ。
その役割を、僕は果たしている。
もう小鳥くんは、無意味で無力なひとりきりの鳥ではない。
僕という『共犯者』がいるからだ。
たとえ無花果さんであろうとも、『共犯者』がいなければ、その『作品』は意味を成さない。
『観測』し、『記録』する、僕のような存在が必要なのだ。
だから、小鳥くんはもうひとりじゃない。
『鳥かご』を開けたのは、他ならぬ僕だ。だとしたら、僕が『共犯者』としてそばで見届けなくてはならない。
どんなに苦しんでいても、どんなにかなしんでいても、それが『表現』ならば、目をそらすことはできない。
『記録者』として、それは許されない。
だったら、どこまでも付き合おう。
どこまでも、聴き届けよう。
小鳥くんが奏でる音を、ずっと、ずっと。
「……小鳥くんは、僕をこんな風に感じてくれたんですね」
「……うん」
「他には、どんな音楽が流れましたか? たとえば、無花果さんの作品を見たときや、所長のおしゃべりや……ああ、なんでもいいや。もっと聞かせてくださいよ」
「……いいの?」
やっぱり、小鳥くんはこわごわと了承を求めてきた。まだ自分が『許された』ことを受け止めきれていないのだ。なにせ、ずっと『巣』の中で生きてきたのだから、急に『共犯者』が現れて、戸惑うのも無理はない。
「ええ、聴きたいです。小鳥くんの『音』……どんな風に世界を感じたのか、どんな風に解釈して、どんな風に『表現』するのか。すごく聴きたいです。聴かせてください」
「……うん、うん……!」
こころが、溶けていく。
固く閉ざされていた扉が、開かれていく。
そんな『音』も、いっしょに聞こえた気がした。
ぼろぼろ泣きながら、小鳥くんはふとつぶやいた。
「……やっぱり、涙は、からすぎる……」
「じゃあ、まずはその涙の味の『音』から聴かせてください」
「……わかった」
ずび、と鼻をすすって、小鳥くんは頭の中の音楽を出力する。また、風変わりな音楽が壊れた『巣』の中に流れ出す。
そんな風にして、僕たちは夜通し五感がもたらした音楽に耽溺した。
ときに驚き、ときに涙し、ときに笑い。
いっしょになって、ひとつの『表現』と向き合った。
そうだ、僕たちは『共犯者』だ。
決してひとりきりなんてことはない。
なにせ、もう鳥は『鳥かご』から飛び立ってしまったのだから。
『鳥かご』の外には、いっしょにはばたこうとしている『共犯者』たちが待ち構えている。
世界が、待っているのだ。
こわくないよ。
さあ、おいで。
明かりのない真っ暗な『巣』の中で、僕はひたすらに小鳥くんの小さな手を離さないようにやんわりと握り続けるのだった。