ぐしゃぐしゃに破壊されたままの蒸し暑い事務所に、しばし沈黙が落ちる。
背中を伝う汗をごしごしとTシャツ越しに拭っていると、汗ひとつかいていない所長が浮世離れした様子で電子タバコを吸いながらつぶやいた。
「けど、もしかしたら、すべては『間違いの始まり』でしかなかったのかもしれないねー」
『間違いの始まり』。
小鳥くんを『鳥かご』に入れたことを、所長はそう表現した。
「場所が変わっただけで、なあんにも変わらなかったのかもなーって、思うんだよー。あんな風に閉じ込めてさー、ヘタに外の世界の存在を教えちゃって、逆にことりちゃんを苦しめたかもしれないかもなーって。『鳥かご』から空が見えたって、飛べやしないのに、むしろ残酷でしょー」
僕は否定できなかった。
たしかに、所長たちは小鳥くんを救い出した。
けど、どうしても『鳥かご』に入れておかなければならなかった。そうしないと生きていけないからだ。あくまでも生かすためには、仕方のないことだった。
それでも、外にも世界があることを知ってしまった小鳥くんは、ネット越しでしか世界に関われなかった小鳥くんは、きっと研究施設時代にはなかった『ひとりきり』という事実を痛感しただろう。
そういう意味では、所長たちのしたことは悪魔じみた行為だと言えた。
……それでも、僕はそれを『間違いの始まり』なんかじゃなかったと思う。
「……小鳥くんは、もう外の世界に触れました。僕に、触ったんです。毒に苦しみながら、焼かれながら、それでも『触れていたい』って言ってました」
「…………」
「毒に晒されながらも、世界の中で生きることを選び取ったんです。それに、小鳥くんはこの『庭』の『表現者』ですよ。知ってるでしょう、『共感覚』のこと。音を奏でて、僕に聞かせてくれました。もう、小鳥くんはこの『庭』の『協奏者』です」
「……僕も話は聞いてたけど、聞かせてもらったことがなかったんだ。まさか君に聞かせるとはねー」
「だから、もう小鳥くんは『鳥かご』の中でひとりぼっちじゃいられない。僕たちと同じ、立派な『共犯者』です。いくら止めようとしても、もう飛び立つ準備はできてる。あとは、どうやってその羽ばたきを維持していくかです。途中で翼が折れないように、今度はそのための『鳥かご』にしなきゃいけない」
「……帰る場所、かー」
「はい。羽を休めて、また次に飛び立つための『止まり木』です。たしかに、小鳥くんはまだまだ生まれたての小さな鳥なのかもしれない。けど、飛ばなきゃ翼にちからは宿らない。何度も飛んで、ときには傷ついて、失敗して、だんだん飛び方を覚えていかなきゃいけない。『小鳥』としていのちを与えたんです、それを見守るのも『親ごころ』なんじゃないですか?」
僕が言うと、所長は吹き出して笑った。
「あははー、君も言うようになったねー。親バカの僕に親ごころを説くかー……けど、そうなのかもしれない」
肩を落とした所長は、ふ、とひとつため息をついて笑い、
「……そっかー、君は『鳥かごの中の鳥かご』まで開けちゃったんだねー。ことりちゃんの一番深いところまで。僕だってこわくて触れなかったところに、触っちゃったんだねー。そりゃあ、ことりちゃんもなつくよねー」
「……なついてるんですか、アレ……?」
「めちゃくちゃなついてるよー。生まれたての雛みたいにさー。まひろー、まひろー、って。僕だってあんな風に呼ばれたことないんだよー。あははー、ちょっと嫉妬しちゃうなー」
なついてるのか……なんだか、なつかれると余計に保護しなければという気分になってくる。
なにせ、僕は『鳥かごの中の鳥かご』まで暴いてしまったのだ。その責任は取らなければならない。
ちゃんと、小鳥くんを外の世界に導いていかなければ。
実の親も同然の所長にここまで啖呵を切ったのだ、それくらいやらなければ格好がつかない。
「……なんとかなりませんかね、小鳥くん」
だが、早速弱音を吐いてしまった。
小鳥くんにとって、外の世界が毒であることに変わりはない。いくら飛び立つ準備ができたとはいえ、やっぱり空を飛ぶことはまだ現実的ではないのだ。
それでも、所長にはなにか考えがあるらしく、ちょいちょいと手招きをされた。
耳を寄せると、ないしょ話のような言葉が吹き込まれる。
「……『暴露療法』、って知ってる?」
「ええ、精神療法のひとつですよね」
それくらいなら聞きかじったことがある。患者をあえてトラウマにさらして、徐々に抵抗感をなくしていく精神療法のことだ。
しかし、小鳥くんの問題は精神的なそれではない。事実として、外の世界は小鳥くんの脳細胞を焼いている。比喩でもなんでもない、毒そのものなのだ。
それなのに、なぜ精神療法の話をしてるんだ、所長は?
不思議そうな顔をする僕に、所長が続ける。
「それと同じこと。少しづつ、少しづつ、外の世界の刺激に触れさせて、慣らしていく。脳が処理できる閾値を上げていくんだ。最初は苦しいだろうねー。もうやだー、ってなるかもしれない。ストレスで動けなくなるかもしれない」
そんな苦行を強いようとしているのか。たしかに、それならだんだんと外の世界にも順応できるようになるかもしれないけど……
今ひとつ不安な僕に、所長は気味の悪い猫なで声を出した。
「そのためにはさー、君のちからが必要なんだよー。なにせ、ことりちゃんが初めてこころを開いて、『音』を聴かせたのが君でしょー? そりゃあもう、親バカとしても認めざるを得ないよねー、次の保護者は君だってさー。ことりちゃんが飛び立つためには、君のガイドが必要なんだよー。手を取って、少しづつでいいから、外の世界を見せてあげてよー」
「……本当に、僕でいいんですか?」
念を押すように問いかけると、所長はうなずいて、
「うん、親としても頼むよー。ふつつかな息子ですが、よろしくお願いしまーす……これは、君にしかできないことなんだよ、『共犯者』のまひろくん。どうか、ことりちゃんを空へ連れてってほしい。僕じゃダメなんだ。頼むよ」
はっきりそう言って、所長はほろ苦く笑った。
小鳥くんにいのちと名前を与えた『親』は、間違いなく所長だ。そして、そのいのちを『鳥かご』から空へと解き放つ役目のバトンは、僕に手渡された。
……いいだろう。
そのバトン、たしかに受け取った。
小鳥くんというニンゲンを、『モンスター』を世に放つ、それが僕に課せられた『保護者』という新しい役目だ。
電子タバコを置いた所長は、僕に右手を差し出した。
それをしっかりと握り返すと、いつものおちゃらけた調子に戻る。
「あー、子供を嫁に出すのって、こんな気分かー。パパは少しさみしいよー」
「小鳥くんは立派な男の子ですからね」
「それにしたって、嫁に出すも同然だよー。僕の手から離れちゃうのかー、あー……泣いていい?」
「気持ち悪いのでやめてください」
「あははー、傷つくなー」
握手を解くと、所長は再び電子タバコを吸い始めた。
「とりあえず、工学部の連中に修理は頼んだから、今夜にはカプセルも復旧するだろうねー。それまでの間、そばにいてあげてよー……って、もしかして今、いちじくちゃんといっしょ?」
「……ですね」
「あちゃー……一番うるさいのがいたねー」
そうだ、まさに毒素の化身のような無花果さんが、小鳥くんの様子を見ている。生まれたての雛にはあまりにも刺激が強すぎるだろう。いろいろと、教育上よろしくないし。
「……引っぺがしてきます」
ぜい、とため息をついて、僕は急いで壊れた『巣』へと向かうのだった。