事務所に強盗に入ったという17歳を確保したその夕方、俺と先輩はボロい雑居ビルの屋上で夕日に照らされていた。
ふたり並ぶと俺の低身長が強調されてしまうが、こうしているとここちいいので仕方がない。
フェンスにもたれながらそろって紙タバコを吸い、なにを言うでもなく煙を吐き出す。先輩と過ごすそんな時間が、俺は大好きだ。
夏の西日は容赦なくじりじりと肌を焦がす。サングラスがなければまぶしすぎて目が潰れてしまうかもしれない。
ちらりと横目で見やると、先輩は虚空を見つめてぼうっとしていた。
基本的に、俺とふたりきりでいるときだけは、先輩は配信を切るし、紙巻きたばこを吸う。このときだけは、俺が『観測者』だからだ。『神様』の視線で、先輩の存在を『確定』させることができる。
だから、先輩はスマホの電源を切る。
『観測』し、『観測』されないと存在できない先輩は。
「……なあ、先輩」
ふと、俺は口を開いた。
「んー、なにー、大樹くん?」
「俺、前に言いましたよね?」
「えー、なんてー?」
「『自分らのやっとること、よう考え』って」
「うん、言ったねー」
「考えた結果が、今回の事件ですか」
「そうだねー」
先輩はあくまで自分のペースを崩さない。というか、このひとがうろたえたり焦ったりするところを見たことがない。
そういう、浮世離れしたひとなのだ。
俺はタバコをコンクリートの上に捨てると、靴底で踏み消した。ふう、と一息つく。
それから、思いっきり先輩の顔をぶん殴る。
骨と骨とがぶつかり合う感触が伝わってきて、確実なヒットが入ったと確信した。
先輩はフェンスに叩きつけられて、その場に膝をつく。
俺は先輩を殴ったこぶしを見下ろし、指輪の類を一切していなかったことに安堵した。
「……いったいなー、もう。ガチで殴ったでしょー、骨に響くなー。42歳が本気でひとを殴るもんじゃないよー」
「うっさいわ、43歳」
頬を押さえる先輩の胸ぐらをつかみ、俺は無理やりに先輩を立ち上がらせた。そして、近距離に顔を近づけてすごむ。メガネとサングラスが、かち、と触れ合う音がした。
「前は牧山蓮華、今回は御影郎二。未成年犯罪者どんだけ量産したら気が済むんですか?」
「幼い子はすーぐ『充てられ』ちゃうからねー。たぶん、僕じゃなくても他のだれかが発端になってたと思うよー」
「言い訳は、それだけですか?」
「うん、言い訳はこれだけ」
……いさぎよいというか、なんというか。
先輩は、それ以上言い訳をしなかった。
自分のやっていることを、よく理解している。その影響力も、のしかかる責任も、よくわかっている。
理解した上で、やめられない。
……わかっているのに。
「……あんたの『視線』は、毒やってことええかげん自覚してください」
「んー、でもさー、ちゃんとすべてを『観測』して、すべてを『観測』されてないと、世界も僕も存在できないって、大樹くんだって知ってるでしょー?」
……そうだ。
『あのとき』から、俺達は『観測』という呪縛にとらわれ続けていた。
先輩は、『観測』されることを選び、俺は『監視』することを選んだ。
真逆の選択だが、病根は同一だ。
俺はようやく先輩の胸ぐらをつかむ手からちからを抜き、眉間にシワを寄せてため息をついた。
「……もう、ええかげん引きずるのやめません?」
「そりゃあ、僕だってやめたいよー。けどね、あれはもはや末代まで続く『呪い』だねー……君だって、その『呪い』にかかってるんじゃない?」
……このひとは、不意打ちで図星を指す。
俺は新しいタバコに火をつけると、ぐしゃぐしゃと整えてあった金の髪をかき乱した。
立ち上がった先輩と、また並んでフェンスにもたれかかる。先輩の左頬が腫れていること以外は、さっきの連続のような光景だ。
くわえタバコで、ぐ、と両手の十指で崩れた髪をかき上げながら、泣きそうになるのをこらえた。
「……あのとき、先輩が代わりに『堕ちて』くれたから、俺は『堕ちずに』済んだんや………堪忍やで、先輩……」
「……いいよー、選んだのは僕なんだしー」
先輩は相変わらずへらへら笑っているが、俺にとってはその笑顔がなによりの罰だった。
『あのとき』、先輩は『堕ちて』、『悪魔』になった。
『あのとき』、俺は『堕ちずに』、『神様』になった。
『観測』されないと生きていけない男と、『観測』することで世界を保とうとする男。
相互補完、というのが俺たちの関係にふさわしい呼び名だろう。
破れ鍋に綴じ蓋、とも言う。
『悪魔』になった先輩を、『神様』になった俺だけが救える。『神様』になった俺を、『悪魔』になった先輩だけが赦せる。
……なんて皮肉な構造なんだ。
けど、俺たちはこうすることでしか関われない。繋がれない。友情や愛情などとうに飛び越えている。理性も倫理も過去に置いてきた。
いびつで、けどなによりも強固なきずな。
……俺もまた、先輩の『共犯者』だ。
唾棄すべき、あの『魔女』たちと同じだ。
一体、いつの間に巻き込まれてしまったのか。
……俺はタバコをひと吸いして、ため息と一緒に紫煙を吐き出した。
「……せめて、先輩がこれ以上『堕ちん』ように、俺は、俺だけは、『堕ちん』ようにする。引き止める……頼むから、俺の手の届かん所へは行かんとってくださいね」
それが、俺に課された『役割』だ。責任だ。
先輩がニンゲンでなくなってしまわないように、俺はニンゲンであり続ける。奈落へ真っ逆さまの先輩のいのち綱になるために、しっかりとこの両足で大地を踏みしめる。
どんなにつらくても、どんなに揺らぎそうになっても、正義の味方の『神様』であり続ける。それが俺なりの『あのとき』のケリの付け方だ。
不器用な俺は、それ以外につぐない方を知らない。
そんな俺に向かって、『堕ちた』先輩はにっこりとほほ笑みかける。カメラに向けるのとは少し違った、苦味ばしったような、痛みをこらえるような笑み。
「……わかってるよー。いつだって、一番の『観測者』は……『監視者』である君なんだからさ、大樹くん」
……わかっている。
俺が痛いのと同じように、先輩も痛い思いをしている。いつだって、消失の恐怖に震える手でカメラを回している。
クソしてるときだって、風呂に入ってるときだって、寝ている間さえも、ずっとずっと、だれかに『観測』されていないと生きていけないのだ。
……『かわいそう』だと、思う。
俺を置いて『堕ちた』ばっかりに、そんな悲惨な人生を送る羽目になっている。
だとしたら、『堕ちなかった』俺は、せめて責任を取って先輩をつなぎ止めておかないといけない。
このひとが、本物の『悪魔』に成り果ててしまわないように。
「……先輩。今夜、また飲みに行きましょ」
「えー、またー? 下戸同士飲んだって地獄しかないんだからさー、いい加減学習しなよ君もー」
「それでも、飲みたいんや。付き合ってくれんの、先輩しかおらんのですよ」
「わかったわかったー、付き合うからさー。ところで、君に殴られて口の中切れてるから、アルコールは染みるだろうなー」
「……おごります」
「よっし、じゃあ仕事終わったら行こっかー」
「はい」
俺と先輩は同時にタバコを吸い終えて、コンクリートで火種を消した。
先輩は自撮り棒を取り出して、スマホの電源を付ける。
配信画面に切り替えると、途端に笑顔になって、
「やっほー、お待たせー。さみしかったかなー、視聴者のみなさまー?」
カメラに向かって呼びかける先輩は、やっぱりどこまでも『かわいそう』だった。
……また、泣きそうになる。
息を思いっきり吸い込んでこらえると、俺と先輩は屋上を後にした。
あとには、西日にあぶられたヤニくさい空気だけがわだかまっていた。