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禁忌を犯してから数日後。義理子さんから八幡宮へ来るようにと連絡が来た。
今回は俺の携帯に直接来たのだが、これは初めてのことだ。
いつもは晴太を通しての連絡のみ。
しかし、禁忌を犯した夜に鏡の中で何があったのかを教えてくれてから、晴太は姿を見せていない。
晴太がいなければ禁忌の話もろくにできないというのに、一体どこにいるんだ?
過去に戻って事故に出会した沖田は、左腕骨折と全身打撲の診断を受けた。が、それ以外は元気で「トラックに轢かれたけど、痛すぎてあんまり覚えてない」と話す。
交通事故にあったのにやたらピンピンしているのは呪いのせいだと思いたい。晴太も大きな怪我はなかったし、沖田の呪いの影響か?
晴太のことを考えながら、八幡宮の社務所へ辿り着く。
沖田は右手で引き戸を勢いよく開け、足をブンブンと前後に振りながらブーツを脱いだ。
左手にギブスをしているからだとわかっているが、行儀の悪さは世界一。
沖田が脱ぎ散らかしたブーツを揃えてから中へ入ると、義理子さんが応接室の椅子に腰をかけて待ち構えていた。
「お待ちしておりました。怪我の具合いはどうでしょう?」
と、沖田に柔らかな口調で訊いた。
「痛ぇよ!」
まるで死んだ魚のような目をしながら、そりゃそうでしょうね、義理子さんは冷めた口調に切り替える。
巫女が茶菓子と茶を俺たちの前に出し終えるのを見届けると、義理子さんは俺に顔を向けて話し始めた。
「晴太から話は聞いています。禁忌を犯したこと、洋さんの涙が玉になり、それを魂のような物が欲して空へ上がって行ったこと……私にも初めてのことですから、死者を救えたのかはわかりません」
「俺はその……禁忌は犯したんですが、過去へは戻れていないんです。沖田も過去では死んでもおかしくないような怪我をしていたって言うのに、骨折だけで済んでます」
何もわからない3人が集まったところで、生み出される会話は身にならないもの。
推測ばかりで話は進む。
「禁忌は犯すべきではありません――しかし、魂に涙を渡してから洋さんの怪我が数箇所治ったことや、鏡が反応し、現代へ帰還出来たことを考えると何か"死者を救う手掛かり"があるように思えます。実際、洋さんと晴太が遭遇した事件はこちらです」
義理子さんが机に差し出したのは、2人が行った過去で起きた事件の新聞。
暴走トラックが殺意を持ってアーケード内で無差別に人を轢いた、無差別殺人事件の記事だ。
晴太から聞いた話とほぼ同じの内容に俺は息を呑んだ。
本当に過去へ戻ることができたのだと、嫌でも思い知る。
2人をこんな危険な目に合わせたのか、と。
「じゃあアレだな。アタシが過去に戻って事件とかを体験すりゃあ、この呪いもなんとかなる可能性があるってか」
沖田は出された茶菓子を貪りながら、人事のように話に入ってきた。骨折して恐ろしい目に遭っているのに、のんきなやつだ。
義理子さんは無言で頷き、沖田はさらに話を続けた。
「アタシはどうせ死なないんだし、いいじゃん。やらなきゃ先祖はうるさいし、伊東のやつは請求書チラつかせてくるからなぁ。ほら、過去には晴太くんも来てくれるんでしょ?」
沖田の問いかけに義理子さんは黙りこくってしまった。眉を八の字にし、察して欲しいと言いたげな顔をしながら、沖田と俺を交互に見た。
これが神霊庁あるあるの「どうか察して」ってやつだ。
しかし、何に対しての沈黙なのかわからない。沖田は何も変なことを言っていない。
話すタイミングを伺っていると、沖田が俺の茶菓子にまで手を出そうのしてきたので手の甲を軽く叩いた。
それが合図かのように、義理子さんは再度口を開く。
「晴太は――神霊庁を、退庁するそうです」
「え?」
意味がわからない。俺も沖田も固まってしまう。あれだけイタコであることを誇りに思っていたのに何故?
俺が禁忌を犯して巻き込んだから嫌になったのか? いや、それでもおかしい。別に辞める必要なんかない。青森に帰るなり、俺達から離れればいいだけのことだ。
何故かと尋ねるが、義理子さんは再び口を閉ざしてしまった。
「黙ってちゃわかんないだろ!」
沖田は沈黙に痺れを切らし、机を叩く。義理子さんの肩が跳ねた。
「実は……」
義理子さんは「晴太には口止めされていましたが」と前置きをし、それでも俺達に伝えねばならないと退庁の理由について語り始めた。
晴太が過去に行って瀕死状態になり、死なないかわりに八十禍津日神との取引でイタコの力を殆ど失ったこと。
更に、沖田の感情を取り戻すためにイタコの力を手放したこと。
過去から戻って来た沖田は、確かに以前のような振る舞いに戻っている。俺はそれを沖田の中で心の突っ掛かりが取れただけなのだと思っていた。
もちろん呪いの可能性も考えていたが、あまりに突然戻ったので呪いの影響ではなかったのだと解釈したのだ。
晴太は自分が死なない為にイタコの力を手放した。
沖田の感情が戻ったか定かではないけれど――と、無理した笑顔を作って、そう告げたと言う。
きっと晴太の事だ。本人には恩着せがましくて伝えられないが、誰かには知ってて欲しいのだろう。
イタコとして仕事ができないから神霊庁を去る。理屈としては理解できるが、個人的な感情としては何とも言えないもどかしさを感じる。
いや、禁忌を犯そうと提案した俺の責任だ。呪いを解くことや縋ることに一生懸命で、その他のことは一切考えていなかった。
そのことについて、晴太には謝罪をした。
しかし、俺は晴太の人生を狂わす大罪を犯したんだ。
冷静になればなる程、
断崖絶壁の淵に立たされるような気持ちになりながら、自責しなくては身が持たない。
帰って来た時の晴太の笑顔だって、俺の気持ちを優先してくれたに違いない。
本当に、俺は最低だ。
この不甲斐ない感情は、歯を食いしばりながらパンツの生地を握る事でしか制御出来ない。
「晴太は青森のお祖母様の元へ帰るそうです。最後まで笑っていましたが――あの子なりの気遣いでしょうね」
義理子さんは話してしまったと、鼻から息を大きく吐き出し、皮椅子に背中をもたれさせた。
「いつ」
沖田の不貞腐れた声は語気を強める。
「いつ、といいますと?」
「いつ帰るんだよ」
「本日の午後です。お2人には自分が帰る日に居なくなることだけを伝えて欲しいと言われましたので」
沖田は険しい顔で立ち上がり、出された茶を一気に飲み干すと湯呑み茶碗をテーブルに大きな音を立てて置いた。
そして何も言わずに入り口へと向かう。
「どこに行くんだ」
「仙台駅だよ! 土方! タクシー!」
「まさか」
右手でブーツを履き終えると爪先をトントンと鳴らす。そして歯を見せて笑うのだ。
「沖田と土方って来たら、近藤がいなきゃあダメだかんな!」
晴太や俺に対する気遣いなのか。それとも我儘なのか。今は沖田が頼もしくて、迷わずタクシーを呼んだ。