「いつまで追ってくんだよ!」
突進するように走る洋が、近くを通った。
相変わらず熊はしつこく付き纏い、地面を響かせる野生の咆哮がやまびこように反響した。
洋は引き金をガチャガチャと引いている。けれど弾切れでもう撃つことは出来ないみたいだ。僕の銃を渡したいけれど、洋はそもそも僕に気付いてない。
熊が洋を目掛けて爪を振り下ろした。洋は間一髪、猟銃を顔の前に盾のようにして事なきを得たけど、熊の力の強さに耐えられない洋は銃から手を離してしまう。
緊張感が走る。銃を無くした洋は息を切らしている。額の汗を乱暴に拭い腰袋のナイフを取り出そうと、熊を睨みながら手で探していた。
洋が熊から少し、ほんのコンマ数秒目を離す。
熊はそれを待っていたかのように洋の顔を目掛けで再び爪を振った。
「あっ――」
思わず声が出る。その時にはもう、洋の顔から頭より高く吹き出すように血が飛び出ていた。
「うあァ――ッ!」
痛みに悶え、一度聞いたら離れることのない断末魔にも似た叫び声。
たまらず身を出して様子を見ると、洋は左耳を抑えてよろめいていた。
「み、耳が……ッ……み……」
痛みに悶える時間さえくれないのが野生だ。熊は洋に覆い被さるかのようにして襲い掛かった。
巨体は洋の姿を飲み込んだかの如く覆い隠し、獲物を仕留めようとする。
洋が
どうしよう。どうしよう。洋が喰われてる。駆けつけたい気持ちと恐怖はまだせめぎ合っている。
洋は死なないんだ。死なないけど、苦しんでいるのは嫌なんだ。熊を殺したらどうなるかもわからないのに、そもそも殺せるの?
何とかしなきゃいけない。熊が満足するのは、洋の体の肉を食い切ってからかもしれない。
僕は恐る恐る立ち上がり、忍び足で熊の背後へ近づいた。音を立てないように、銃を不恰好に構える。
そして洋に夢中な熊の後頭部に銃口をぴたりとつけた。
「ごめんなさい!」
引き金を引いてしまった。全身の骨が砕けるような衝撃が走る。僕はその痛みに耐えながら、すかさずもう一発と打ち込んだ。
熊は怯むことなく僕の方を向いた。僕は血で真っ赤に染まった熊を見て、とても恐ろしくなって、目を固く瞑りながら何度も何度も引き金を引いた。
やがて熊はよろめきながら自分の力が消えゆくのに抗うかのように吠え、木に寄りかかるようにして倒れ込む。
念には念を入れて、残りの弾を全て熊に撃ち込む。ぴくりとも動かない熊の絶命を確認したあと、恐ろしいことをしてしまったと我に帰った。
力が抜けて腰が抜けると、膝からがくんと座り込んでしまう。
生き物は殺しちゃいけないってあんなに強く思ったのに。恐怖が勝ると簡単に命を奪う選択が出来る。
散々握っていた猟銃が突然恐ろしくなって手放すと、発砲した時の衝撃で腕や肩を痛めていた事に気付く。
震える手のひらが自分のもので無いみたいに見えて、今さっきの事を思い出すだけで喉から声が出るんだ。
――そういえば、洋は? どうなった?
後を振り返る。パーカーを縦に引き裂かれて、真っ白だったワイシャツは血で赤く染まり、顔を腕で覆い隠して寝転がっている。
「ごめん! 大丈夫ッ……」
下半身を引きづりながら洋に近づいた。洋の近くには、黄色のピアスがついた耳が物のように落ちている。
「ねえ! 大丈夫!?」
洋の左耳は無くなって、あちこちに大きな引っ掻き傷。
恐る恐る顔から下も見て行くと、首や腹、太ももまで爪で掻かれた跡がある。
「こんなの死んだ方がマシだよ」
ふふ、と言って腹を抱えた大声で笑うんだ。何も面白く無いに。怖くて怖くてたまらない時、人は笑うという。きっとそれなんだ。
洋は憎たらしいほど青い空を見つめている。遠くを見つめ、虚な目には光がない。話しかけているのかと思ったけれど、独り言を言っているようにも聞こえた。
「熊に襲われたなんてさ、リスク背負って山に入ったんだから自業自得だろって思ってた。バカな人間が自分は大丈夫って過信して、明日があると思いながら死んだんだって」
笑いはやがて少しずつ小さくなって、静かな声になる。
「いつもとか、明日とか、毎日とか。意外と呆気ないんだ」
僕は洋の言っている事が間違ってると思わない。僕もそうだから。明日があると信じている1人だから。
その明日を迎えられず、傷つき、彷徨う魂を救うのが洋の役目。救済に必要な洋の涙、「救済の雫」はまだ落ちていない。
あんまり恐ろしくて涙が出なかったのかもしれない。
洋はゆっくり起き上がると、近くに落ちている自分の耳を拾った。どうやってくっつけるんだろう。
魂を救えば幾分かは傷が治る。でも体から離れてしまったらわからない。
耳を元あった場所に当てがうけれど、手を離せば小さく跳ねて落ちる。
「死ぬって怖いんだ。でも、死ねないのも怖いんだ」
洋はまた耳を拾った。俯き、肩を振るわせる。
するとボロボロとビーズのような「救済の雫」が血溜まりに落ちた。僕はそれを一つ一つ丁寧に拾って、持ってきた巾着に詰めていく。
「あと何回死を体験すればいいの? 誰がアタシのこと助けてくれるの?」
「洋……?」
彼女らしくない言葉。僕が顔を見るために、隠している両手を解いた。
抵抗して出来た大小様々な引っ掻き傷が顔中は近くで見ると赤黒く、肉まで抉れている箇所もある。
僕は驚いて声が出ない。意思疎通の出来ない熊が、やめてと願った場所をわざわざ狙って攻撃したんだ。
「アタシ、どんな顔してる? 耳も顔も自分のじゃないみたい。怖いでしょ、気持ち悪いでしょ」
洋は怖いよね、気持ち悪いよね、見たくないよねと、壊れた機械のように何度も繰り返した。
パニックになっているんだ。体を揺らして落ち着きがない。
「大丈夫だよ。魂を救えば傷も治るから。現世に行ったらちゃんと治そう」
跡になるかもしれないのに。安心させたくて責任感のない言葉を掛けてしまう。
けれど、洋にこの言葉は届いてないない。涙を流しながら、怪我をしている太ももを拳で叩いている。
肌と肌がぶつかるたびに細かい血飛沫が舞って、患部を悪化させているのがわかる。
そして別な方の手の親指を噛む。不安で堪らないと、無意識な行動だろう。
「ひとりにしないで……誰も……離れて行かないで……ちゃんとやるから……」
洋の言葉は、胸をぎゅうっと雑巾を絞るようにキツく締めた。
怖かったんだね。呪われて、自分の両親も本当の親じゃなくて、その直後に友達が離れて行ってしまった。
それでも平気だって強く見せたくて、熊と戦うなんて無謀なこと言ったんだ。
洋にとって禁忌を冒すことは、先祖の小言を聞きたくないからじゃないのかもしれない。もしかすると、誰かと繋がっているためのツールなのかもしれないと思った。
洋がそう考えてるかなんてわからない。けれど、怖くて寂しくてたまらないのは伝わってくる。
尚更、見た目がグロテスクだと僕らも離れてしまうと焦ってるのかもしれない。
噛み続けて歯跡がついた右手にそっと手を重ねる。そして手首掴む。洋は僕から顔を勢く背けた。
「口約束なんて信用してもらえるかわからないし、安っぽく聞こえるかもしれないけどね」
僕の言葉が洋の不安を溶かすかはわからない。言葉でしか伝えられないのに、言葉に出すと意味のなくなりそうな言葉が世の中にはたくさんある。
言葉って不便だなぁ。本当に伝えたい想いは嘘みたいに聞こえるんだもん。だからね、洋に1番届きそうな言葉を掛けるんだ。
「君が僕にかけた呪いは、絶対に解けないから」
僕がここにいるのは君のせい。君がそうしろって呪ったんだもの。どれだけ嫌になっても、僕は呪われてしまってるから。君から離れる事は出来ないんだよ。