◇
「おかえり」
帰宅すると、洋は朝とは違う表情をしていた。何か信じられない物を見たような、少し落ち込んだ表情。
何かしたのかと聞くと首を横に回してクローゼットを開いた。
あのクローゼット。貴重品もそこに置いており、今朝開けた時に鍵を掛けるのを忘れてしまった事を思い出す。
洋の手によって開かれた扉からは、ほんの少し前まで頼りにしていたディスク達が顔を見せた。
心臓に胸をドンと叩きつけられる。それは喉に込み上げてくるような痛みのある不安だった。
「引きました?」
もう、作り笑顔で笑うしかない。大抵こういう映画が好きだと言えば、罪を犯す前提で話を続けられてしまうらしい。
いくら死なない体を持つ洋だって、そんな
「びっくりした。見た。グロかった。何がいいかわからなかった」
洋は無感情に早口に言葉を発する。それはそうか。オレだって、作品が良くて見てるんじゃないんだ。
「わからなくていいですよ。ただの趣味なんです」
「そっか。ならいいや」
それで終わり? もっと怯えたり、ここには居たくないと逃げ出すかと思ったのに。
呆気を取られてしまい、数秒硬直してしまった。洋は無造作に置かれたパッケージを綺麗に並べる。
そしてパッケージを見比べて、全てに評価をつけていく。
「作り物っぽいグロは怖くないな。似たり寄ったりにも見えるし。見飽きた」
下手な口笛を吹いてクローゼットを閉め、飯にすんぞと普段どうりに振る舞う。
気遣いでない、あっさりとした態度。この人、本当に人に興味がないんだ。
「あなたは、聡さん達の事を殺したいと思わないんですか?」
隠し通して来た事を知られてしまったから、もっと知ってもらいたいと思った。
左手で洋の右手首を掴んだのは、故意ではない。
「……思わないぞ? 腹は立つけど、アタシの人生にはもう関係ないし」
捨てられたも同然の処遇だったでしょう。自分が育った過程の全てが仕組まれたものだったのに、どうしてこんなに呑気なんだ。
「オレはね、親が嫌いなんです」
「へぇ、そうなんだ」
興味のなさそうな返事。それでもこの手は力を入れて、彼女の手を離そうとしない。
耳から抜けて行っても構わないから、声に出してみたいと思った。
ずっと鍵のかかった胸の奥の南京錠を、力も必要なく壊したのは貴女でしょう。
――裕福な家庭に生まれ、金でしか見られてこなかった人生。学生時代はずば抜けて金があるからと同級生から虐げられ、何とかして金を得るために思い出したくもない仕打ちを受けた。
さらに、今はカラーコンタクトで隠しているものの、生まれつきの左右非対称の瞳の色は仕打ちを悪化させる材料には最適。
ヘーゼルアイと黒い瞳のオッドアイは格好の餌食になった。
本当の金持ちは醜いことをしないと言うが、プライドがあれば話は別。
いじめなんて平仮名3文字で片付けられるような生ぬるいモノじゃなかった。
そこから人間不信になり、スプラッター映画を見始めた。いつかアイツらもこうしてやると怨念を育てていると、両親にそれがバレてしまった。
母親は異常だと家から出て行き、父親はオレを更生させようとして然るべき機関への受診を進めて来た。
話は聞かず、ただ社会的な損害を恐れて力や金でオレを見てくれなかった。
どんな大企業の社長や会長、役員でも人の尊厳を金でどうしようとするのかと絶望した。
その日から世界の人間全てが羨ましくて、憎たらしくて、きっと誰も受け入れてはくれなくて、金だけで、金でしか見てくれない人が寄ってくるのだと心を閉ざした。
表面だけ取り繕っていれば孤立しない程度の関係は作れる。だから飄々として、どこか掴めない人間を目指した。
その為の黒い瞳のコンタクトレンズ。これがなければ社会には馴染めない。
――洋が瞳を覗くので、コンタクトレンズを外して見せた。本当だ……とポツリ呟き、ずっと瞳を見つめてくる。
「親のせいでこんな目なんですよ……金があるだけなら、こんな異常な感情は持たなかったかもしれないのに! 貴女の怪我する姿を見て、これが両親達だったらどれだけいいかって興奮しながら見てましたよ……だから貴女達の中に紛れようとしたんだ!」
言葉を吐き捨てるように悔しさと憎悪が混じる。その目が熱く、唇を噛みしめる。握りしめた拳が微かに震え、抑えきれない感情が今にも溢れ出してしまいそうだった。
禁忌の立ち合いは人体破壊願望によるものだとも伝えてしまった。
洋は息を少し漏らし、キッチンへ向った。流し台下の扉を開けて取り出したのは包丁。
右手に持って歩いてくる姿に少し後退りすると、洋は柄の部分をオレに向け差し出した。
「じゃ、殺してみるか?」
返事を待たず手を奪われ、柄を握らせられる。刃物は洋へと刃先を向ける。
そして洋が2歩踏み出すと、包丁を通じて何を刺すような感覚が走った。
首を下に向ける。赤い血が水漏れしたようにぼたぼたと滴り、床に血溜まりを作る。
包丁の刃の部分からつたう鮮血は、手に吸い付くように流れる。着ていた黒いスーツでさえ、赤く染まった。
「あ……あ……」
慌てて包丁を引き抜いた。どうしたら良いかわからず、洋を抱きしめて誤魔化すしか出来ない。
刺してしまった、どうしよう、殺してしまったかもしれない――望んでいた欲求とは真逆の感情が溢れ出す。
「ほら。伊東は普通だよ」
肩に顔を埋めていた洋はゆっくり、穏やかな口調でオレの背中を撫でながら言った。
どうしたらいいかわからなくて、過呼吸のように息を荒あげながら、どうにかなって欲しいと縋るように腕に力が入る。
頬には後悔の涙が熱を持ってつたい、洋の左耳へと落ちていく。
浅葱色のパーカーから血が滲む。洋は横腹を抑えながら後ろは少し離れていく。
全てが離れる時、離れたら終わってしまう気がして彼女の両腕を軽く掴んだ。
「ごめん、なさい。貴女にこうしたいわけじゃなかった。違う、オレは父親や
謝罪と言い訳。洋は呆れたのか、大きなため息をつきながら床に胡座をかいで座る。
殺してみたいと言った言葉の重さは想像以上だ。
手はまだ震えていて、血糊が部屋の明かりで煌めく。
「マジさ、そういうの痛いからやめろって。もう親とか関係ないし、親のせいにしてる時点で親から離れられてないじゃん。親が嫌ならちゃんと離れろ! 伊東は伊東。お前がお前で生きてくんだからな!」
容赦のない言葉に耳鳴りがした。洋はオレを真っ直ぐ見て、自分の言葉を放つ。
それが怖くて、眩しくて、視界が揺らぐ。
「その目だって伊東は嫌かもしんねぇけど、アタシの黄色を見て少しマシだと思えよ! 赤も緑もいるんだし、黒と茶色なんて誤差だよ、誤差。今まで何か言われてきたろうけど、そいつはよっぽど平凡で特徴もないガキだったんだろ」
悩んで、隠して、偽って。
犯されていた過去は、呪われたひとりの人間に冒されていく。
あの時この人が居てくれたら良かったのにと、過去の自分が求めた救いの糸を無自覚に垂らしてくれる。
味方だとは言わないのに、側に立って背中を押してくれるような強い意志。
「伊東はちょっと金持ってる普通だぞ。あ。でも、修繕費のの取り立ては異常だかんな!
なんだか、バカバカしくなってきた。恥ずかしくなるくらい過去や親を恨んで、復讐する度胸もないのに妄想だけで自分を異常だと疑って。
ただ誰かにお金でなく、伊東秀喜として見て欲しかったのだと気付かされる。
時間をくれとか、何食べたいだとか、迎えに来て欲しいとか……全部、沖田洋が伊東秀喜として見てくれている証拠だ。
「なんだか、離れ難くなっちゃうな……」
「は? 離れるも何も、アタシは行く場所がないからな。暫くはここに居るぞ! だから離れるのは無理だ! 養え!」
横腹を抑えつつ、ムキになって吠えてくる。病院案件だろうと思いながらも、救急箱にあるものでなんとか処置してみる。血は滲むものの、傷が浅かったからか傷が治癒して来ているように見えた。
よかったと胸を撫で下ろす。この前はあんなに傷付く姿が見たいと禁忌を見に行っていたのに、今は傷付いてほしくないと強く思っている。
守達もこんな気持ちなのか――と、心配とほわほわした気持ちが体に宿る。
「ま、伊東のグロ映画好きもいつか役に立つ日が来るかもしんないぞ。好きな物は好きでいいんだしな」
「……えぇ」
そりゃあ、側にいて欲しいですよね。
人の弱いところに素早く入り込んで、それを強みに変えてくれるんだから。
――。
「まずい…………」
「だからコロッケは難しいって言っただろうが!」
夕食のコロッケは黒い炭と化し、苦くて死ぬほど不味かった。